近世越中国のお話

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越中国の相撲人
(越中郷土史家 at 02/12 17:05)
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長和二(一〇一三)年七月二十六日、宮中での相撲に県高平という越中から参加するはずの相撲人の姿が無い。洪水のため到着が遅れたのであった。越中各地では地方相撲が行われ、藩政期に到る。津軽出身の鬼木崎(鬼頭崎)岩右衛門(大坂大関)は、宝暦頃に藩の許しを得て富山町で興行し、引退後に津軽屋岩右衛門の名で富山に住む。人々は五福(熊野神社)に碑を建立し、越中の相撲開祖として相撲勧進の際には詣でる事を作法としたと伝う。
人数は少ないが、江戸で活躍した越中出身の関取がいる。浅香山吉五郎は明和六年に現在の高岡市横田町で生まれ、文化四年二月前頭(七枚目・二勝四敗)を一場所だけ経験する。剣山谷右衛門(文化二年~嘉永七年八月二十六日)に現在の富山市掛尾町に生まれ、文政十三年二月に大関昇進、二十七連勝・最優秀六回の強豪である。弘化四年に横綱の声もかかったが、小さい体(百六十七p・百十五s)ではみっともないといって辞退したと言う。嘉永五年二月・四十八歳まで取り、幕内三十八場所通算百四十三勝三十一敗六預五無であった。階ヶ嶽龍右衛門(文化十四年~明治元年十月二十三日に)現高岡市戸出町に生まれ、弘化五年正月に入幕、安政三年十一月大関に昇進したものの同四年十一月関脇に下がり二日目に負傷し、同六年正月に引退する。幕内二十二場通算六十九勝三十二敗七分四預一無、最優秀二回である。黒崎佐吉は文政八年に水橋肘崎に生まれ、元剣山の二十山を頼り入門、嘉永七年二月と十一月の二場所幕内を経験し、計九勝一敗四分の好成績であったが、安政二年九月大坂で病没する。武蔵川大治郎(文政十一年十二月~明治十四年五月二十六日)に現高岡市中川上町に生まれ、安政七年二月に入幕するが、文久二年二月に引退し、帰郷後には羅卒(警官)になった。浦風林右衛門(天保十二年六月~明治三十八年八月九日)は現射水市久々湊の生まれで、十二年・二十二場所かけ明治五年四月に入幕、関脇など三役を六場所勤めた。
明治に入ると、砺波市出身の立田野竹松が明治十六年一月に入幕し、四場所幕内を勤める。同十九年五月を最後
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