2010年03月10日

富山藩の「大奥」創設者 勝野

 出雲国赤尾家の勝野は才女の誉れ高く、徳川秀忠の姫である珠姫(天徳院)が三歳で前田利常に輿入れした際に召しだされ、仕えた。
 やがて前田利次が生まれると傅役を任され、寛永十六年に富山藩が分藩されると富山城に移り、御広式を整備する。三十人扶持と金五十両が給された。
 父の赤尾三右衛門清正も寛永十七年に利次に仕え(五百俵・銀百枚)、長兄の弥三左衛門(後に三右衛門)清治(五百石)は寺社奉行や町奉行、次兄の覚太夫清長(二百石、後に五十石加増)も寛永十六年に利次の御馬廻として仕え、その子覚太夫清貞は前田正甫の小姓である。
 勝野は延宝八年に兄清治の孫の甚左衛門清房を養子に迎える(五人扶持・金十両)。清房は御手廻組・御広聞番を勤め、貞享二年に勝野の跡を継いだ。
 勝野は貞享二年に没したが、赤尾三家はそれからも富山藩主の側近くに仕えた。


posted by 越中郷土史家 at 17:39| Comment(0) | TrackBack(0) | 日記 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする
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