2011年11月16日

富山(砺波)における江戸期の災害と砺波地方の生活・文化


一、砺波郡に関係する飢饉や災害
文化元年(一八〇四)井口では旱魃、五箇山の南大豆谷村などで地震が記録されている。
文化二年(一八〇五)越中各地で不作が伝えられ、六月にうんか防除のため、魚油の必要量を書き上げるよう達し、十二月砺波・射水郡の川下米の欠米を九升まで認めた。
五月一日に福光村東町百姓善助宅から出火し、四一六軒中九六軒(百八軒の記録あり)を焼いた。
文化三年(一八〇六)前年十一月に勝興寺闡郁が宗論(三業惑乱)のため江戸築地門跡へお預けになったため、一月に門徒多数が金沢西末寺・照圓寺へ詰め掛ける騒ぎとなった。その数一万人ともいう。馬廻頭は藩へ幕府に掛け合うよう進言し、門徒をとりあえず静めた。
文化四年(一八〇七)不作が続き飢饉が起きつつあったため、加賀藩は冬に十万石を支給する。また御貸米を各郡で実施し、砺波郡一万五千八百石・射水郡九千石・新川郡一万三千石であった。富山藩では十一月末に難渋人の調査を行ない、対象者に生活資金を貸し出した。また金融緩和のため銭手形を通用させ、銀銭手形貸付を実施し、借家賃の一割引を命じた(六年四月まで継続)。
文化五年(一八〇八)五箇山では不作のため十一月に御救米がある。この地ではたびたびの不作のため、藩は十年まで困窮者に米・稗、極貧者に粉糠の支給を継続した。
文化六年(一八〇九)五月から七月旱魃、十二月大雪に見舞われた年であり、射水郡で六千八百石の貸米がある。六月には医王山黒池で雨乞いが行なわれた。
六月一日福光新町で油屋幸吉宅より出火し、七十五(六十五)軒が焼失して一人が焼死する。
文化七年(一八一〇)一月は厳寒で、井波町では燈油も凍るようであったという。四月十七日城端町今町で出火し、全町の八割近くを焼失する。
文化八年(一八一一)三月に庄川で洪水が起き用水に被害が出る。
文化九年(一八一二)射水郡小杉では豊作が伝えられたものの、全般的には旱魃・虫害がたたって不作であり、砺波郡では十に月時点で損耗が七万七百五十石にもなった。
年初の大雪で二月加賀藩は困窮している村を救済するため引免を発表するが、十村からは不徹底を指摘する声があがった。九月には年貢米皆済以前に売り出していた新米を厳しく取り締まる。作食米の制度が再興される。これは耕作を始める頃に食用として藩が農民へ貸与する米で、草高に応じ貸渡し、秋に返却する仕組みであった。天明五年には村を通じて貸与する夫食貸米に変更するが、この年に元へ戻した。割り付けは、砺波郡千八百十七石・射水郡千二百十五石・新川郡千四百七十八石であった。
文化十年(一八一三)五月が空梅雨、六月一転して長雨という妙な天候で、不作が決定的になる。加賀藩は八万石を支給することになり、作食蔵による救済方法が見直されることになった。砺波郡では九月十七日夜吉江中・高宮・土生・小坂、十八日夜坂本・法林寺の人々が大声をあげ、戸出の十村川合又八に窮状を訴えようとする。十一月九日才川七辺の人々六十人が古箱を背負って福光に現われ、二百人ほどに膨れ上がったところで、夕方石崎善右衛門宅に押し掛け粥を所望する。町方は粥二斗を振る舞い、夜四つ時に退散させた。十八日には藩から御貸米一万四千九百石があり、この内福光には百十九石九斗四升が回された。町方も産物銀十三貫目のうち二貫目余を支出し、家数三一〇軒に各二匁ずつを、計千四百人に渡した。救済は翌年にまたぎ、二月町内の分限者から寄付が相次ぎ、三月藩も貸付米を行なった。
砺波郡では四月十三日夕六つ時に暴風が発生、戸出では屋根や立木が損傷し、福光では家屋が倒壊する。城端では三十軒余が被害を受け、小矢部の金屋本江村で八十軒・四日町で二十軒が潰れる。
六月砺波で中町の四日市屋吉左衛門宅から出火し、十六軒が焼失・三軒が潰家になった。富山藩では消防の妨げになると、十月に火事場見物の厳禁を申し渡す。
文化十一年(一八一四)三月晦日戸出東町で仁太郎宅から出火、百十七件を焼いた。四月八日に伏木で大火があり、二百余軒を焼く。五月二十四日昼九ツ半福光の下幅町有田屋五兵衛宅から出火し、二十六軒と貸家三軒が類焼した。
文化十二年(一八一五)砺波郡では一部不作が伝えられる。
文化十三年(一八一六)砺波郡では夏以来風・水・虫の害が相次ぎ、藩は福光村へ百一石二斗八升の御貸米を行なう。一月福光新町祖谷屋良蔵宅から出火し十九軒を焼く。
文化十四年(一八一七)不作への備えも進める。加賀藩では四月農民に奢侈を戒め、八月には村々の請酒販売・空米相場を禁じた。また十月に御助小屋より村々へ返された者の内、砺波郡百九十一人に十三貫五百目を貸与する。
文化十五年・文政元年(一八一八)旱損が砺波郡であったようである。甘藷栽培を停止し、田が減少するのを防ごうとする。福光で三月十六日夜四ツ時祖谷屋の孫市宅で出火し、二十四軒が類焼した。
文政二年(一八一九)三月十七日五十嵐父子・川合等十村二十八人(別記三十一人)が一斉逮捕されたのである。これに先立つ六日に藩主前田斉広は窮民対策として隠田数十万石の摘発に乗り出していた。また十村の一部に奢侈があると感じていた。閏四月に郡奉行と改作奉行が連署で赦免を願い出るが、これを不可とし、六月に十八人(越中十四人内訳は砺波四人・射水四人・新川六人)を能登島に流した。その前に夏の暑さで五人が牢死している。家財は妻子に下し、持高は取り上げて村方に預けた。しかし彼等がいないと村の運営が停滞し、結局翌年六月二十八日に釈放することになる。四年三月に業務に復帰した。
加賀藩では不作でなかったものの、一日四食が習慣化していたことを懸念し、三月に米は常食にせず、団子・うち置・大とう・いり粉・めくず等を食べ、大根菜は心がけて屋腰に掛けて干し雑食とするように、また厚みの魚は筋が緩むので食べないように触れ、十月には十村に万雑が重ならないよう達する。幕府は値段の低い米価に酒・酢・醤油・味噌等を合わせて引き下げるよう発令し、七月に加賀・富山藩はこれを触れた。閏四月二十三日に砺波郡で田祭りが行われている。
砺波郡で六月十二日と八月二十二日に地震が感じられ、風水害もあった。また七月に花火禁止の確認が加賀藩からあった。
この年各地で疫病の流行が記録されている。
文政三年(一八二〇)井波では一月二十九日山ノ下町で出火し、類焼百七十軒・潰家四十軒に及んだ。五月二十六日小矢部川が出水した。
文政四年(一八二一)五月は旱魃であり、九月農民に心得方六十一ヶ条を申し渡す(一月にも種々暮し二十七ヶ条が出されている)。
文政五年(一八二二)十一月二日に砺波郡七口用水と射水郡六ヶ用水との分水争いが、郡奉行所の調停で和解する。
文政六年(一八二三)砺波郡や新川郡で夏に旱魃があったことが記録されている。新川郡では舟倉に御蔵が建てられた。一方で十月に五箇山下出村で地滑りがあり、仁兵衛など八戸が屋敷替を余儀なくされ、藩から米・銭が支給された。
文政七年(一八二四)十一月七日福光で夜七ツ時に新町下幅八十郎宅から出火し、十三軒を焼く。射水郡と砺波郡で麻疹が流行する。
文政八年(一八二四)新川郡で不作が記録されている。七月加賀藩は諸郡とも作人不足につき他国出取締りを厳重にするよう令した。これには北関東諸藩・代官所による真宗寺院を媒介にした入植奨励によるところも大きかった。
八月十四日砺波郡・射水郡で北西の大風があり、井波では立木根返りが起き洪水が発生し、福光では文政六年に架けた東町端土橋が流れ落ちた(文久三年板橋として再建)。五箇山で仙納原大橋が流失。大風による潰家には一年間救助米が支給され、例えば一日当たり金山本江村に四合・石名田村に五合・西中村に七合、といった分量であった。
文政九年(一八二六)三月九日夜四ツ半福光で落雷があり、西荒町岩木屋又市宅が出火し九軒を焼く。
砺波郡で疱瘡が流行する。
文政十年(一八二七)夏の天候が不順の上に病虫害があり、砺波郡では不作が記録される。
文政十一年(一八二八)砺波郡に旱魃の記録がある一方で、各地で洪水が発生する。八月九日から十日、二十四日には砺波郡でも暴風のため洪水が発生した。
文政十二年(一八二九)米価が高騰し、四月に貯蔵・買い占めを禁じ、翌月には当年に限り他国産米の津入りを許可した。一月が大雪で、七月には風損がある。
文政十三年・天保元年(一八三〇)戸出では一月三日東横町で火事が発生し、百八軒を焼き半焼は九軒であった。この時高岡町奉行(半田次右衛門・大橋作之進)が指揮して消火にあたっている。直ちに郡奉行所から米三十石、五ヶ村より銭五十貫文、被害者各家へ川合家や菊池家より一貫文ずつ渡される。四月二十三日夜九ツ時にも東横町甚左衛門宅より出火し、三十五軒を焼く。この時も二十五貫八千文を五十一人に支給し、御貸米三十石四斗五升が渡される。有力者からは銭・筵・味噌等が配られた。
七月各地で地震が感じられた。
天保二年(一八三一)夏に雨が続き、気温も低く、九月二十八日庄川が氾濫し、松川除が大破する。被害は砺波郡でもあった。
天保三年(一八三二)一月二十六日に戸出東町で高島屋吉四郎納屋から出火し三十六軒を焼く。御貸米二十二石四斗が支給された。
九月十日〜十四日暴風雨があり、秋に砺波郡で窮民が出て救済が必要になる。
天保四年(一八三三)六月からの雨が秋に凶作を招いた。特に六月二十一日は大雨であった。米価は一升が八十四文であったのが七月から八月にかけ百三文に昂騰する。加賀藩は租税を免除し、貸米十六万二百九十四石を給す。内訳は砺波郡では三万千五百十二石六斗・射水郡では二万五百石・新川郡では二万八千八十三石八斗である。また貯穀を命じ(実施されず)、十月酒造を三分の二にせよとの幕令を半高から三分の一にするよう改めて公布した。
天保五年(一八三四)各地で疫病が流行する。砺波郡杉木では九月二十日までに二十余人が病没し、射水郡氷見の柿谷光誓寺過去帳によれば、例年一年間に五人程度の掲載であるところ、三年から五年には計六十九人も掲載されている。そこで加賀藩は五月に藩医を各地に派遣する。砺波郡には不破文中と黒川元良、射水郡には藤田道仙と河合善庵(病気のため小瀬貞安に交替)、新川郡には中村文安と今井昌軒が、例えば福野には不破文中・埴生には黒川元良というように分担して廻り、基本的には謝儀を受けたが困窮者には無料診療をした。病気はコレラ・麻疹・疱瘡のいずれか諸説ある。この当時の処方は麻疹・疱瘡には白牛・黒き牛・あめ牛の糞を黒焼きにして服する、「時疫」には大粒の黒豆を煎じて飲む、というものであった。
戸出で三月二十二日馬場の武右衛門宅より出火し、七軒を全焼・類焼四件を出した。御貸米四石二斗を支給された。
天保六年(一八三五)前年同様各地で疫病が流行し、八月砺波郡でコレラが流行ったというような史料もある。
備荒倉の設置が各地で見られる。砺波郡では六家と池尻に建て、同八年の時点で二百三十俵三斗(五百七十五石四斗)が保存されていた。この内池尻村では七月に普請が始まり、四十八石を入れた。十二月の記録では米二百四十七石余となっている。
天保七年(一八三六)未曾有の凶作であった。夏に雨がちで、八月十三日昼には大暴風雨で諸川が氾濫し、二十日に山寄で丸雪が降った。
郡部では早速備荒倉が機能した。砺波郡ではここから福光へ米八百十二石が御貸米となる。五箇山田向村では抵抗力が衰え風邪が流行している。ここでも米の支給に努めた。十月九里ヶ当村役人が洩米を差し押えた。これは下百瀬川村善九郎が井波町で買い入れ、炭焼き仲間の西ケ原村長蔵に頼んで、婦負郡の八人が背負いの米五俵と三袋を運んだのであるが、許可書がなかった。半分は役人に報奨として渡し、半分は入札して代銀を藩へ入れた。福町村辺り小矢部川原で五百から六百人程が夜大声を出し竹貝を吹く。町端御郡地には極貧者八百人がいた。さらに藩は御算用場より郡方へ救助法を渡した。粉糠は毒なので素焼きを砕いて一緒に鍋で煮れば毒気がなくなる等が示されている。
天保八年(一八三七)この年も前年から引き続き、両藩とも領内の救済に全力を挙げた。人々は春に山野へ出て摘み草をして食料の補給をしていた。加賀藩では幕府が通知してきた薬法(享保十八年に使用した「本草綱目」「農政全書」)を回覧する。また非常食の製法を廻状した。とらせ団子はとらせ(トリアシショウマ)の根を堀って毛を削り落とし、藁灰の灰汁でよく茹であげる。これをから臼で砕いて布袋に入れ、川水で一夜さらしてから干して、挽臼で挽いて団子にして少し焼く。とらせの類一升に籾の粉・穀類の粉を三合混ぜ、餅草など少し混ぜると食べやすい。糠はそのまま食べると毒があり、胃腸を痛め皮膚が青く腫れて死に至るため、瓦等の素焼物を砕いて粉糠とともに鍋で煎ると毒気が抜ける。それを篩にかけて、そこへ穀類を少し加えて団子か煎粉にして雑炊にして混ぜる。          
一月五十嵐篤好が諸郡惣年寄・年寄並へ、木葉を食用にする方法を困窮者に伝えるよう達する。二月には武田九郎兵衛・渡瀬七郎太夫より非常食の作り方が達せられた。その大略は、三・四月新樹の頃の楢・櫧・槲・椋・柿・栗・榎等の若葉を酒で茹で、茶を干すように日に干して、楠天笠(ヤブニッケイ)の香気あるものを除き蓄え、鰹節・魚肉を加えて味噌汁に焚き、米穀を加えればなお良い(伊勢足代権太夫弘訓「おろかおひ」の内救荒之方からの抜粋)、青松葉を釜に入れてよく茹で、匂いをとって細かく刻み、ほうろくで煎り、臼で挽粉・蕎麦粉六分に松葉粉四分で合わせて団子にする、というものであった。
砺波郡では御貸米五千八百五十石と粥を支給するが、半分が玄米と籾・半分は粉糠を混ぜて、一日一合五勺ずつであった。のちに粉糠は腹具合に良くないと、蕗・さいかち・ぎびき等の葉と槻の若葉を混ぜて、玄米七勺五才・麦籾七勺五才・大豆・小豆の葉を入れたものに替えた。年初には一日一回であったが、夏近くになると朝二杓と午後一杓の二回に分けた。五箇山では四月二十九日に米が支給される。
藩は二月に改作奉行と郡奉行に大きな権限を与えて派遣した。砺波郡杉木新へ山口常三郎・永原虎一郎、射水郡小杉新へ崎田達之助・萩原勘太夫、新川郡東岩瀬へ山口新左衛門・広瀬順九郎がその任にあたる。その際「人民の死生に任じ心力を尽し、飢餓せしむる勿れ、凡そ事の大小となく便宜に随ひ裁決し淹滞ある勿れ、救荒の政遅延して事に及ばざらしむ勿れ…」との根本方針を与えた。まず貧困者へは無利息年賦返済で貸銀する(前に借りていた場合はその利息分を元銀に繰り入れ)。この月諸郡に御貸米をして、他国へ米などを密売しようとしたことが分かれば訴人が半分・所方に半分渡すことにしていた。八月酒造高を三分の一にし、九月新穀を残し食用植物の栽培を奨励する。また年貢皆済のため蔵宿から借財することを禁じた。十月になると作柄も回復して米の流通も円滑になり、米価は一石八十九文にまで下落する。十一月従来の製法以外新奇菓子類の販売を禁止した。備荒倉の貯蔵米を取り崩したため、六月に米に替えて新麦を一万石納入するよう命じた。五箇山下出村で七月に火事があり、十四軒が類焼する。
天保九年(一八三八)九月福光で浮塵子の害があり、一段の収穫が二斗〜三斗程になる。十月五箇山で困窮者三千人に米を支給する。
天保十年(一八三九)一月御貸米があり、砺波郡に六千百十九石・射水郡に三千七百三十一石・上新川郡に三千七百二十七石・下新川郡で千八百三十八石配分された。七月砺波郡では蝗の発生があり不作の傾向がある。砺波郡で体力が落ちた人々が風邪にかかったため、十一月末に矢木村館柏庵の進言で薬を供与し、村役人が責任をもって保護することにする。
十村等が申し合わせ、各組町方・郡方の消防設備と運営について取り決める。そこで設備は住民が負担し、奉行が指揮を執り、かつ藩倉の火防に努めることが明文化された。三月には郡方火事の際の水旗を定めた。四月一日福光新町で五十一軒を焼き、六月十四日下幅古館屋小兵衛宅から出火し、五十四軒を焼く。
天保十一年(一八四〇)十一月には大雪が降る。改作所は一月「能登の神棚」という多収種籾を配布し、五月「稲虫をさる法」を伝達して油を用いたウンカの退治法を周知させた。砺波郡大辻で三軒・三人、太郎丸で四軒・十一人、深江で三軒・八人、神島で七軒・二十人、中神で二軒・七人を対象に米が支給される。二月に池尻備荒倉で天保八年分の蓄籾六百五十九俵が種籾として払い下げられる。七月村方の万雑を高懸り・家懸り・面懸り等歩合をもって行なうことを達する。同月砺波郡で虫退治のため二百十日を過ぎても用水を取り払わないよう申し渡しがあった。
砺波郡の池尻村で大風のため備荒倉の屋根が吹き飛んだ。九月十一日に庄川で出水し、野尻岩屋口等の諸用水、弁才天前松川除が決壊し、太田・権正寺・頼成・上麻生・西部金屋・大清水に被害が出た。
天保十二年(一八四一)八月末に砺波郡津沢と新川郡水橋に米蔵の新設を申し渡している。一月大雪になり、福野で一丈積もる。
天保十三年(一八四二)砺波郡で松川除(寛文十年着工・正徳四年完成、砺波平野を守るため藩と十村が協力し、難工事の末全長八五〇間)の盛り足し工事が行なわれた。五箇山で四月畑作に障害が出るため、田地割特例が施行される。風水害が二月と八月に発生する。二月二十二日五箇山の下出村地内三ヶ所が崩壊した。
天保十四年(一八四三)加賀藩は農業生産の拡大のため、二月末(別説弘化元年)に郡方の町奉公を禁止し、三月末農家の娘が農業を嫌って尼僧になることを禁じている。
天保十五年・弘化元年(一八四四)一月十二日井波町で夜に神明屋仙助宅より出火し三百軒が焼失した。翌日には三日町でも出火し、八日町・六日町・北川・北新町で二百五十軒が類焼し、常永寺も被災した。
弘化二年(一八四五)十一月十九日昼八ツ時に福光の西町八幡屋与三兵衛宅から出火し、十四軒を焼いた。放生津で二月十四日に法土寺町三ヶ屋次助宅で朝四ツ時出火し、北風が激しく川に繋留してあった小廻船に燃え移り、留綱を焼断して荒屋町の川岸に流れ着いた。そこから人家へ延焼し、東町で五百軒が焼失した。勝光寺・光明寺・本誓寺・七面堂・八幡宮・神明社・藩御給人蔵一棟と正米一万石入五棟も被災した。
弘化三年(一八四六)六月に井波で火消の制度が整備された。火消方組合は水車組(新町山下町)十二人・掛矢組(畠方町山見松島)十二人・碇組(北新町北川)十二人・井筒組(御坊所御手人)十三人の計四十九人で構成し、火事の時は各々水旗一本、夜は高提灯一張・懸(掛)矢二挺・梯子一挺・鳶口五挺を持参することとし、杉木・福野・城端・福光が火事の時には、混雑しないよう一組ずつ月当番を決めて、まず五人を急ぎ出動させた後、鎮火しないようなら他の各組より五人ずつ出動させ、法被を着て頭取の指図を受けることが定められた。手当てについても明確化され、出動先が杉木ならば二百五十文・福野ならば二百文・福光ならば三百文・城端ならば二百五十文であり、大火の際はこれに増して支給され、さらに握飯も提供されるものとした。道程一里半までの近村が火事の時には、月当番の組から二・三人が出動し、非番組は火事を見付けたら町御用所や月当番の頭取へ知らせ、人足を出さなくても水旗と高提灯は準備していることが定められる。さらには火消人足には酔酒不作法を厳禁し、火事場で他の火消衆と出会っても争わず消火を第一とすること、遠所へ出張して消火のため潰家をする時には、その箇所を役人に知らせ、指図を受けること、火消道具の破損は直ちに頭取に届け出ること、等も決められた。火消達は風吹の時には町内を見回るものとし、一組三人ずつ頭取の指図を受けて、三組九人が代わる代わる二組で見回りを分担した。火消道具には水鉄砲・大鍵縄・指股・水溜桶・縄刷牙が準備され、組頭には手桶三ヶを渡した。消火のため用水から水を廻すので、用水管理は日頃から心がけておくことが達せられた。氷見町でも十二月に火消才許人の任命があった。
弘化四年(一八四七)四月八日から大雨で九日庄川が出水し野尻岩屋口が破損する。弁才天前では二十七尺にまで達した。小矢部川でも出水し、殿村橋・高宮橋・糸川橋・東町橋が流失した。三月二十四日夜四ツ時に砺波郡や高岡町で地震が感じられ、これ以後二十日間小震が続いた。これは善光寺地震の余波であった。
弘化五年・嘉永元年(一八四八)四月十七日庄川が出水し、被害があった。またこの年は十一月より大雪になる。
嘉永二年(一八四九)砺波郡で荏胡麻の種子が無料配布され、染料である紫根の植え付けが奨励される。
五箇山一帯は不作であった。
嘉永三年(一八五〇)五箇山で二月前年の不作で困窮している人々七千二百九人に御貸米が支給された。
六月九日に五箇山の下原から長崎・北原村間で渡船が転覆し、三人が水死する事故が起きた。両岸に張った操り綱から小綱に船をつないで流されないようにしていたが、渡っている途中に小綱が切れたようである。
嘉永四年(一八五一)加賀藩では七月に郡方の困窮を救うため、別除籾のうち二万俵を支給し、郡別に割り付けた。砺波郡で疱瘡が流行する。
庄川の洪水に備え、松川除補強工事を庄川筋各用水の江下銀(農民の出し合い)で施工する。七月に雨が続き、十三日砺波郡で出水がある。
嘉永五年(一八五二)福野で火消道具ならびに町中役付を決め、火事の時には火消し道具を持たなくてもよいからともかく火元へ駆け付けること、風下五・六軒は火消しに出なくてもいいが、風上の住人は協力すること等を明確にした。小矢部で鍛冶町と飯田町が火事になり五十軒を焼く。
飛騨から「米はや搗の法」なるものが伝わり、八月藩は厳重に取り締まった。これは杵臼がいらず、米がたちまち白米になる、五斗が五斗八升にも六升にもなる、というもので、高山でこの方法で製した米を食べた人が発病、糠を食べた犬は倒れ死んだ、等という噂も伝わる。また麦麺類になったものもあるので気をつけるよう伝達された。
五月二十日砺波郡で大雨が記録される。
嘉永六年(一八五三)今石動で三月一日に出火し、鍛冶町と飯田町で五十軒が焼失した。砺波郡では四月二十日に小矢部川と庄川等で洪水があったが、五月二十三・二十四日半夏至、七月十一日まで日照り続き、八月一日まで雨が全く降らず、水争いが多かった。十月四日には一転して大雪になり、潰家があった。一日で三尺以上の積雪があり、交通も途絶する。
嘉永七年・安政元年(一八五四)七月十六日庄川と小矢部川で出水する。十一月四日に地震があった。高岡町では以後二十日間小地震が記録される(震源地は東海道沖)。
安政二年(一八五五)砺波で四月十八日暁八ッ半頃に新町借家喜十郎宅から出火し、四十軒を焼いた。類焼人へは三十二石〜四石二斗の御貸米が十五年賦で戸出町蔵からなされている。八月二十日風雨が激しく、小矢部川で出水し、豆田川嶋除が切れ、土生村三百石が変地する。五箇山では同月仙納原大橋が山崩れで橋桁一本を流失した。
砺波で一月九日昼、二月一日八ッ時に地震が感じられた。さらにはコレラが流行する。
安政三年(一八五六)火事に備え福野では御蔵屋根を瓦で葺いた。除夜より元日にかけ二日町肝煎宗兵衛宅で出火。風呂に下女が入って筵をかぶり寝てしまい、釜口より筵の藁に引火したことが原因で、下女は裸で飛び出し無事であった。八日昼四ッ半には水嶋村又兵衛(茂兵衛とも)宅の芝屋から出火した。今石動で四月十五日川原町で火事があり、十九軒が焼けた。砺波郡や富山町で疱瘡が流行する。
安政四年(一八五七)砺波郡では福野の御蔵米を岩武用水で津沢に舟下しする。しかし米の搬出は米価昂騰を招き、その上不作であった。戸出村では新屋仁兵衛・米屋助五郎・米屋七兵衛の蔵米があり、前年暮には八十五匁であったのが、二月上旬百五匁、四月から六月上旬に八十五匁に下落したものの、下旬になると百七匁になった。そこで郡奉行所から救済がある。二月二十日極貧の者四十八軒六十五人に一人四斗一升の籾を支給し、七月には極困窮人二百二十九人に一人七匁五分九厘八毛ずつ計百七十四貫文・困窮人九十一人に五匁二分七厘五毛ずつ計四十八貫文・増山行願二十七人に七匁八分一厘五毛ずつ計二十一貫百文・非人二十二人に五匁三分六厘三毛ずつ計十一貫八百文・皮多五人に五匁八分ずつ計二貫九百文・藤内極困窮人二十三人に八匁一分七厘四毛ずつ計十八貫八百文・同困窮人四十四人に五匁七分七厘三毛ずつ計二十五貫四百文が支給され、暮れには極貧の者へ米価補助七百十六匁をとりあえず渡し、その後に七百五十匁を支給する。また村役人から寄付もあり、一月二十三日算用聞仁兵衛より一石五斗七升、二月二日算用聞次左衛門より一石一斗九升、十日組合頭助五郎より一石五斗七升、二十日算用聞七郎右衛門より一石二斗が極貧者に渡される。
安政五年(一八五八)二月十三日に地震があった後、二十五日に未曾有の大地震が発生した。震度は富山が六、マグネチュードは六・八というが、それ以上かもしれない。各地で記録されている地震の被害状況を記すと、砺波郡埴生村で潰家一軒があり、家の下敷きになった一人が足を負傷する。城端町では潰家・持蔵開きがあった。岩木村で五助宅が潰れ、母と六歳の弟が圧死した。掛所の石垣が崩れ、土蔵や戸前十軒余が潰れた。また川合田村等では温泉が沸き(弘化四年の説もある)、天神町南端の村方用水側田中にも沸いたが、用水を利用している江下農民の反対で実現せず、その後用水が流入して噴泉も止まった。砺波郡太美組田屋村領字西領の御田地と小院瀬見村領で山が崩落し、小矢部川が出水した。石動町で奉行所から潰家二十軒には一軒に銀十匁・半潰五軒に七匁・大破・中破四十一軒に五匁・小破五十一軒に三匁が支給された。
五月十六日から七月五日まで天候が不順で、六月二十一日に雹が降った。さらに地震のため米価が高騰し、加賀藩では酒造半減を命じたが、各地で暴動が発生する。今石動では七月十三日に竹貝を吹き、大声で叫ぶ人々がいて、奉行所から足軽が出動して鎮めるが、宮島で三百人が集合し、十六人を逮捕したら、十四人が郡方の者であった。十九日に福町の米商嶺屋に四十人が押し掛け戸を叩く。主人は背戸より逃れ、群衆が中に入り主人の所在を尋ねるが、家人から金沢に出張しているといわれたため、米を寄越すよう言うと、留守中なので何とも出来ないが、帰宅したら伝えると答えた。そのためこの群衆は次に米屋の島屋源兵衛宅に押し掛け、米を要求する。飯米が五斗あったので、これを渡そうとしたが承知せず、一人五斗ずつ貸せという。主人は今ここには無いので、店へ行くと一石程あるから、後程貸そうと言ったところ、納得して引きとる。次にこの群衆は水落屋善兵衛宅へ行くと、家人から主人は荒木家の吉事の手伝いでいないといわれ、仕方なく明日は東屋宇八郎のところから廻ることを申し合わせて帰った。その間に杉木から足軽小寺丈右衛門等が到着し、今石動奉行所も警戒を厳重にしたため、群衆は集団行動が出来ずに終息した。
福岡町では笠の価格が下落したため、笠縫人が仕入笠商人の買い取り価格が安すぎると、商人宅に強訴する。そこで郡奉行から縫子の生計が立つよう笠商人に命じ、翌年には十村もこの問題を検討し善処に努めた。
戸出では七月十七日に百余人が蔵宿新屋仁兵衛宅を襲い、板塀を壊した。責任を取ったのは十村の安藤次郎四郎で、二十九から九月二十二日まで謹慎する。
砺波では七月十日に困窮人へ籾三石五斗を支給し、難渋人に米価九十五文のところ七十九文で買えるように補助する。二十二日御印米を八十八匁で販売した。また小幡屋小左衛門・鷹栖屋甚兵衛・同源右衛門が寄付し、一人五匁を七十軒に配布した。七月に籾の給付と八月に御貸米があり、内訳は杉木新町が六俵一斗八升五合・八俵三斗七升二合、太郎丸村六俵四斗一升五合・十二俵三斗、深江村二俵一升二合・三俵一斗、神島村三俵七升六合・七俵二斗、大辻村四斗九升四合・一俵一斗であった。そのために他の地域のような騒動はなかったといわれるが、十一月四日芹谷村で大声をあげた集団がいたようである。
七月に福光で米商人達が雨乞いをするため、医王山の大池や蓑谷の縄が池に金気の物を投げ込んだという噂が流れる。十七日夜九ツ時に加賀から能美村与三郎と菱池谷の六兵衛に率いられた五百六十人が二俣往来筋で「ひもじいわあい」と声を合わせて休み茶屋を破壊した。西町の人々が役人へ届け出て、会所で見張っていたが、翌日夜に町中へ侵入する。天神町と西町の往来で梯子を横にしてくい止めようと試みたが、九ツ時に天神町へ数十人が大声を上げて押し寄せ、警固所を壊して裏町から本町に出て、この時謹慎中であった組合頭油屋善吉宅に石礫を投げる。暴徒は刺し子・綿絆・鉞で武装し、鉄砲まで持っていたという。首領は帯刀していた。いったん宇佐八幡宮境内で休憩し、再度三・四十人で油屋へ押し掛ける。今度は火消し達が防御したものの、武装をしている暴徒に排除され、家屋・家財が壊された。ただ隣家との塀や蔵には手を付けず、気が済んだのか、八幡宮へ戻って天神口から去り、天神村で鉄砲を放って山中に消えたと伝えられている。藩は検分をしたものの、なぜか処罰をしていない。
井波町では米屋が米不足に対処するため米を買い集めるが、調達が難しく、町蔵の藩詰米二百石の下付を申請したら、百石が許可された。七月に二百五十石の下付を願い出たら、金沢で百石を回さねばならないと返答されたため、改めて申し入れると、二十六日に許可された。しかし前日利賀谷の住民は、このような米屋の行為を買い占めと受け取り、長崎村茂右衛門を首領に筵旗を仕立て、竹槍を手に閑乗寺に集結し、夜竹螺を吹いて、松明を灯し絶叫した。明け方に大宝院町から北川村に出て、米屋三谷屋吉次郎宅を襲撃した後、井波町の六日町宮田屋与兵衛宅を破壊し、八日町塩屋小兵衛と蔵宿高瀬屋与右衛門宅を襲った(道順には別説あり)。高瀬屋では使用人が屋根から屋根石を投げて防戦し、手代惣二は内蔀から鑓を突き出して、九里ケ当村市右衛門の弟和助の胸を刺して殺害した。盗賊改方が捜査し、十二月に関係者を逮捕していく。惣二も入牢するが、翌年二月に出牢する。利賀谷村役人も責任を問われて翌年万延元年四月に入牢を命ぜられ、牢死者も出た。十月茂右衛門は井波町の観音寺(地名)で磔に処された。五箇山は不作であった。七月十二日に粉糠買入銀の貸与を受けている。このような騒動のため、砺波・射水郡奉行は七月に責任を問われ謹慎処分が課せられ、九月二十四日に解除されている。
五月十九・二十日に小矢部川・千保川・庄川で大洪水があり、浸水被害が出る。十月二十九日に大風が吹き、十一月十日の大吹雪では、砺波郡の松並木や民家が倒れ、小矢部では夜八ツ半に芹川村三軒・岡村一軒・五社村三軒・石名田村一軒が被害を受けた。疱瘡が五箇山で流行し、領内各地でコレラが翌年春まで流行し、砺波郡でも八月頃に蔓延している。加賀藩は九月に対処法を各奉行宛に送付する。そこには体を冷やさない、腹には木綿を巻き、大酒・大食を謹む、発病したら早く寝床に入り、飲食を謹み、体を温め、芳香散を薬に用いる、体が冷えてきたら焼酎一・二合の中に樟脳または龍脳を一・二匁入れて温め、木綿の布に浸して腹・手足にすり込む、芥子泥を心下腹・手足へ小半時くらいずつ度々貼る、といったことが記され、また芳香散上品は桂枝・益智を細かくし、等分の乾姜を細かくして調合し、一・二分ずつ用い、芥子泥(芥子と水を混ぜて練ったもの)・芥子粉と等分の饂飩粉を熱い酢で堅く練り、木綿切りに伸ばして張り、間に合わなければ、熱い湯で芥子粉だけ練ってもよい、とある。
安政六年(一八五九)戸出でも窮民救済措置が取られている。砺波の御貸籾が継続され、杉木新町七俵七斗八合、太郎丸村九俵四斗八合、深江村三俵一斗四升、神島村五俵一斗九升五合、大辻村一俵三斗三升三合であった。
砺波郡の野尻村で二月二十八日に万兵衛宅が焼失し類焼する。雨が多くて南風が強い年であり、五月に雹が降る。五月十九日から二十一日に小矢部川・千保川・庄川で出水し、砺波郡や高岡の木町・下川原町に被害が出る。八月十二・三日小矢部川が出水、砺波郡では浸水があり、そのうえ十九日には積雪の雪が溶けたことで、洪水が発生する。
砺波郡油田で四月十一日に竜巻が発生し、晒布や立木・花草等を巻き上げながら、放寺より新明の方向へ進んでいく。その道筋には雹が多く降ったという。
コレラが昨年来各地で流行する。砺波郡では九月二十四日から十月一日までの内、晴天両日に祭りをするよう指示があり、砺波で中止されていた歌舞伎山を四日間引き出した。郡内各地では獅子舞、五郎丸では丈四間余の鐘馗大臣の作り物も出た。
安政七年・万延元年(一八六〇)砺波郡では青田の稻の穂先が枯れて米価が高騰し、粥の炊き出しがある。戸出では難渋百十九軒に三十四日間、一人四合から二合、極難渋者にはさらに増量し、計一石一斗六升を炊き出す。水一石三升・上白米一斗五升・焚木柴十五把を要し、酒屋古武屋源七所有の大釜を用いた。また竹村屋七郎左衛門から寄付があり、西町六軒に九升・東町八軒に一斗九升・東横町十三軒に二斗・御蔵町三軒に六升・馬場町七軒に一斗一升・北町六軒に一斗一升を支給する。五箇山では四月極困窮者に御貸銀があった。新川郡の境では六月に小前者救済のため、奉行役用銀七貫匁の貸し渡しの願出があった。
庄川で十二月に出水し、被害が出る。砺波でまたコレラが流行し、太郎丸村では九人が罹患、その内七人が没する。
万延二年・文久元年(一八六一)砺波郡では三月十六日立野の西方で二十八軒焼失し、並松四・五本も焼けた。福野の下町新道で四月に火事があり、十五軒が類焼する。
加賀藩は八月に領民に宛て種痘を受けるよう布告する。
文久二年(一八六二)砺波郡では三月十日夜九ッ時に中神村宮が焼失する。六月二十五日蔵屋根を瓦葺に改めることにし、七月五日に成った。
三月十五日夜に大風が吹き、砺波郡で山田組で潰家二十軒があり、田中村や竹林村でも被害があった。
各郡で疱瘡と麻疹が流行し、砺波郡では野尻組で六千百二十三人(その内杉木五百二十七人)が羅患し、三百八十六人(内杉木二十九人)が没する。若林組では五千七百二十七人中三百八十一人が没する。井口組では五千二百余人が羅患し、三百九十九人が没する。五箇山で九月に七千四百四十五人中四百三十八人が没する。
福光で二月に狼の被害がある。
文久三年(一八六三)砺波郡では二月十三日夜より辰巳風が翌日朝五ッ半頃まで吹き、多くの家が潰れ、大木が根返りした。深江村伊兵衛の新居が住む前に潰れたという。九月三日には大つむじ風があり、昼四ッ時に鷹栖御坊島辺りより吹き出し、苗加鷹栖江辺りより東へ稲圦(水量調整のため地中に埋めた樋)等を巻き上げて通った。その跡は田の水が濁り、四〜五丈もの黒いものを虚空に引いて行き、その中が光を放っていた。稲圦の被害が多く、西町の豊蔵では五十宛固めてある二つが巻き上げられていた。又九郎の大根畑では五〜六歩の過半が引き抜かれ、大豆・小豆等にも被害がある。稲は籾がこぼれて藁のみになり、木の枝に稲束がかかっていたという。
文久四年・元治元年(一八六四)砺波郡で麻疹が蔓延したため、医者畠伯春が薬を各戸へ配布する。
元治二年・慶応元年(一八六五)霖雨が続き、不作であった。十月に米の移入を許可し、移入に係る税を免除した。杉木新町で種痘所を設置する申請が四月に出され、閏五月に頭川村の吉岡亮伯と嶋村の丘村隆介が種痘を学んでいるので、郡内の医者へ伝習して郡内六ヵ所で種痘をしたく、五箇山へは種痘医を派遣したい、と上申した。そこで藩は現時点では種痘医が少ないため、福光と福岡の二ヶ所で開くことにし、六月十日に福光・十三日に福岡・七月十日に杉木新町で開設した。五箇山で麻疹が流行し、塩硝生産に支障が出るほどであった。
慶応二年(一八六六)砺波郡では春に柳瀬村又九郎倅善太郎が居村の御普請所堰留で格別の働きがあり、しかも重傷を負いその後亡くなった。検地奉行は六月に父の又九郎へ三十貫文を渡している。五月十五日朝に砺波では北風が強く吹き所々で根返りがあった。八月七日夜に大風が吹き、福光では桐木七十本と家屋に被害が出た。
慶応三年(一八六七)七月十三日小矢部川の洪水で稲に被害が出た。特に医王山で大雨が降る。砺波の出町往来や福野の田で狼が出たため銃卒が狼退治に出動している。
二、生活水準の向上
水道の整備 この頃には生活環境の整備が進んでいる。水道も埋設地が増えてきた。砺波郡では用水をそのまま引いて飲料水にしていたため、伝染病の危険が絶えなかったが、五箇山等の山間部では谷間の水を竹樋で引いている。伏木でも台地の上から崖下泉を、木の継手で竹樋を継ぎ足して引いているが、分水池を用いていた。この方式は高岡町でも使われ、奉行所官舎や片原町等では湧水を用い、金屋町や横田町等では庄川の伏流水を引いて、井戸で取水している。瑞龍寺でも千保川または伏流水を引いている。坂下町では地下二・五bに直径六十六aと高さ一・五bの桶を分水槽に用い、これに竹筒をはめ、各家の井戸に水を導いた。
教育の普及 各地で寺子屋が創設され、男女とも教育を受けるようになった。有志の青年層は私塾へ進み、また和算を学んだ。僧侶達も学塾で研鑽を積んでいた。
福祉 これまで概観したように、藩は飢饉・災害の時には生活資金・宅地建設資金や食料を無償援助し、あるいは長期間・低利(無利子)で御貸米・銀をする。また日頃から質素倹約を奨励し、各地に備蓄米や籾を準備することにも力を入れた。疫病流行の節は藩医を派遣して巡回診療をし、薬を町医者に依頼し配布する。その際、事前に各戸へ配ってある札を持参することになっていた。老齢者には扶持が支給された。加賀藩では八十五歳・富山藩では八十八歳から名簿を作成し、九十歳になって渡される。高岡町では文政十二年正月に九人、伏木村では文化十年から同十二年まで奈良屋源右衛門の母よりが受給している。この記録から、年に二回三月と十一月(閏十一月)に支給したことがわかる。戸出では文化九年三月六日に狼の布晒屋彌兵衛、嘉永二年戸出村七三郎母みい、同三年同村太左衛門祖母きめが受給した。文化七年に砺波郡岡御所村で肝煎(まだ現職である)儀左衛門が受けている。天保十三年には百歳の人に下賜があったことがわかっている。また孝行者や婚家で尽くした嫁にも賞与があった。
 幼児死亡率が高いため、藩政期の人口は横這いであり、一軒の平均二・三人程度である。藩は三児出産があると養育費を補助し、年一人扶持を支給する。たとえ養育数が減ったとしても、十五歳まで支給し続けた。また捨て子の養育者にも支給している。目の不自由な人々にも、男女を問わず資金を長期返済で融通した。
三、砺波郡出身の蘭方医
尾崎玄達(寛政八年〜安政六年) 石堤の人で、祖は能登の長氏という。号を栢山・国華といい、文化頃に長崎へ赴き、オランダ人から蘭方を学ぶ。また原蕉斉から漢方を学んだが、実父が亡くなり帰郷し家督を継ぐ。能書家としても知られ、寺子屋を開いた。
高畠次郎右エ門秋平 北般若の西部金屋高畠博道次郎右衛門の子として生まれる。祖は前田利家に仕え新川郡井見荘日谷村にいたが、致仕して現在地に移住し帰農した。秋平は医者を志し十九歳の時に上京して、内科を福井家、産科を賀川家に学び帰郷して開業、門弟も持ったが、改めて門弟数人と大坂へ赴き京で開業し、寛政二年十一月から橋(稿)本白敏に就いてオランダ語や蘭方医学を学んでいる。門弟の篠島貞輔を三年華岡青洲に学ばせ娘と見合わせ分家させた。自らも西村太冲に算学、泉伏翼に書を学び、江戸で宇田川榕シに化学を学ぶため旅立つ直前に急死する。弘化二年一月二日六十一歳。
長崎文景 福野の生まれで、長崎で蘭学を学んだ後に、文政五年から天保八年にかけて、石動の糸岡で開院したといわれる。著書には『医方秘々訣』『諸方抜萃』等があり、多くの奇行があった人。
松田東英(寛政元年〜弘化四年十月二十五日) 埴生村河内屋伊兵衛の次男で、京や長崎で蘭方医の修行をし、杉田立卿に入門、文化五年金沢町医者で眼科の松田東英の娘婿になり名を就、字を将卿、号を芹斎とする。養父は同十二年に藩士寺西蔵人の医者になり、自身は同十四年に二代目を名乗った。文政七年著名な蘭方医で藩医吉田長淑の門人になり、天保頃には反射レンズの原理で望遠鏡や顕微鏡を作って寺西秀周や前田斉泰へも献上する。同十二年五十石を得て、大野弁吉とも交流を持ち、次女は銭屋五兵衛の次男に嫁いだ。
洲崎勇造 天保十三年に井波町で生まれる。安政五年三月京で産科の松岡周輔に入門し、西洋医学各科を学んだ。文久元年十一月に帰郷し開業、その後、明治八年七月から十年十一月にかけ京の松岡周吉を招いて研究を深め、十三年十一月医会を組織し医事交聞会を創設、二十年十月には井波病院を開いた。子息の勇橘は慶応二年十一月に生まれ、富山で開院する。
舘柏庵 杉木新町で弘化頃より明治初期に開業する。実父は矢木村根尾宗四郎。嘉永四・五年に杉木新に移る。合薬商でもあった。
中西通玄 杉木新中町で文政・天保年間に開業する。江戸の中西家で外科を学び中西姓を称した。天保十四年に没。
斎藤宗玄 祖は小矢部の福住村から移住した。屋号は福泉屋。代々医者で、子息の宗庵は寺子屋も開いた。
高畠東済 杉木新中町で天保から安政頃に開業し、牢舎医師も務めた。西部屋又七とも称し、霊渕の号で和歌や俳諧にも名がある。弟畠伯春など一族には医者が多い。
賀(香)川玄龍 福光村農家川合田屋宗七三男に生まれ、初め勝蔵。医者を志し、金沢で中野随庵に学んだ後、華岡青洲の門下に入る。帰郷し嘉永四年三月表町に開業する。安政二年十二月七日四十三歳没。 
入門先
●京【萩野元凱】
井波 尾崎英介
   松井周平禎 字子興、文化二年三月二十二日 二十八歳
   杉谷周介駿 字千里、文政九年三月十二日     
福光 田辺玄泰信恒 姓藤、天明元年七月
今石動 遠藤礼三宗城 字芳壷、文化十一年十一月八日 三十七歳
杉木新 舘柏庵維嘉 字多山、文政三年七月二十八日 二十八歳
【済世館 賀川家】
明和七年 尾崎栄輔(萩野元凱に入門した井波の尾崎英介と同一か)
【素診館 小森桃塢】
文化十三年六月 川崎(小矢部の下川崎) 宮永豊吉正朝(農政で名高い宮永家の一門か)
 同年十月 福光 石野賢良、砺波郡岩木(福光) 沼田勇蔵
 同十四年十一月 桜井以文哲
文政三年五月 川崎 宮永東作寅(尊王志士宮永良三の父)
 同七年二月 砺波郡答野嶋(高岡) 中嶌謙斎
 同年三月 砺波郡福町(小矢部) 福島友順
 同十二年五月 砺波郡 岩佐秀平
天保二年四月 桐木(福野) 丹羽三七
【時習堂 廣瀬元恭】
城端 嘉永七年四月没 桜井良助
【読書室 山本家】
嘉永二年 今石動 建部有方
●紀伊・大坂【春林軒と合水堂(大坂分教場) 華岡青洲】
文化十年二月三日 砺波郡杉木新町 中西通玄
天保二年八月二十九日 砺波郡七社村 大谷俊造改玄龍
天保六年十二月十五日 西部金屋村 高畠貞輔改修平
同七年五月十六日 砺波郡柳瀬村 斎藤宗玄 合水堂
同十五年四月二十六日 砺波郡杉木 高畠東済
弘化四年五月十六日 福光 賀川玄龍
嘉永二年二月二十八日 今石動 九鬼秀達(実父は高岡町医者佐渡養順)

砺波郡の麻疹 文久二年.jpg
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2011年10月29日

高峰三代〜高峰幸庵・玄台・元稑

はじめに
 越中国高岡町の町医者高峰家は、医業のみならず町人文化の発展と普及にも尽力していた。本稿では高峰家について、特に高岡町に招致されて以降の三代について考察する。
 高峰家について、高峰元稑(精一)による「先祖由緒並一類附帳」をもとに略記すると、姓は卜部であり、大和国添上郡三笠(春日の三笠山か)の刑部永知は織田信長に仕え、添上と添下の郡代に任じられるが、元亀元(一五七〇)年に摂津国守口で戦没したという。妻は相楽郡湯舟(船)の岩城左近娘と伝う。継いだ仁左衛門知定(〜慶長十年・一六〇五)は三笠に住み、次の慶庵常安(〜延宝五年・一五七七)が京の典薬頭半井驢庵法印に医術を学び医者になる。元和年中驢庵の江戸行きに同道した際福井藩松平家の侍医に就任することになり、国替で越後国高田へ移った。母方の岩城を名乗って松平家の物頭黒田半兵衛の娘を妻にする。高田藩医で後に富山藩医になる岩城家とは縁戚関係にあるかもしれない。藩医を継いだ仙庵壽信(〜元禄五年・一六九二)は二百石取りであったが、子の元陸ノ進(〜寛保元年・一七四一)は幼少であったため百石、国替に同道せず、元禄十二(一六九九)年に辞して高峰に復し、高田の上小町で町医者になる。幸庵勇(〜安永九年・一七八〇)が町医者を継承したが男子がなく、頸城郡山能美村(地名不詳)庄屋松村兵右衛次男を養子に迎えた。幸伯寛和(〜享和二年・一八〇二)と名乗り町医者を続ける。妻(延享三年・一七四六〜文政七年三月六日・一八二四)は松平家(文政六年に桑名と越後に所領)臣中野家の娘で高田の生まれという(高岡利屋町大法寺墓碑)。その子が幸庵寛容(のぶもり)である。

一、高峰幸庵
 安永八(一七七九)年に高田で生まれた寛容(通称が元稜、後に幸庵、字が君象、号は鼎亭や遵時園など)は京で吉益南涯門人吉岡氏を介して南涯に師事し、『金匱要略紀聞』や『傷寒論紀聞』の口述筆記を担当しながら、南涯の所持していた『解体新書』を読み、特に気血水説から得るところが大きかった。賀川玄廸にも学んだ後、杉田玄白への入門を企図して江戸へ行き、杉田立卿や土生玄碩、大槻玄沢、桂川甫周からも触発された。眼科を専門にしつつ、薬や医療道具についても学んでいる。
 高田へ戻った後、家老鈴木甘井の『熊胆真偽弁』編纂にも関与し、実験結果を大槻玄沢に送って見てもらう。玄白の「諳厄利亜国産科要具」を模造して京の賀川玄岱に贈り、「越列吉低力的乙多(エレキチイリテイト)」を作って治療に用いている。絵画も巧みで、高田の善光寺に涅槃像の絵があるという。妻は榊原家(寛政七年より三十三年間越後村上に所領)臣御馬廻組田辺善左衛門の長女トキ(磯部家娘の名知世とも)であるが、子ができず、高田町年寄長野金次右衛門(孫八郎とも)娘の辰(十四歳)を養女にした。 
文化十(一八一三)年冬に富山町へ来遊する。このとき高岡町医者の長崎浩斎が教えを請い、幸庵は『解体新書』と『西説医範眼科篇』を講じた。翌年高岡町に来た時には薬剤の製煉法を教示している。何とか町に残ってほしいと考えた浩斎や南善左衛門(射水郡中川村・御扶持人十村)や津田弥右衛門(塩屋)などは、他国者の永住に反対する一部町医者の反対を押し切るために奔走し、町奉行の支持も取り付けたのであろう、国泰寺(臨済宗)侍としてなら問題は無いということになった。懇請を受け入れた幸庵は、日蓮宗であったのを臨済宗に改宗し(父母は日蓮宗大法寺に合葬)、妻と母を同道し御馬出町に住むことにする。
長崎浩斎の医術修行には力を惜しまなかったが、その父である蓬州とは折り合いが良くなく、文政元(一八一八)年に生起した酒席での行き違いは、二十歳の浩斎を深く悩ませた(『。浩斎年譜』)。
医者としては多忙を極め、一日千服の薬を出したと伝う。著書としては『西説瘍医概言』『黴毒精薀』『医事旅行済生方』『西説眼球解剖篇』などがある。『西説瘍医概言』では、神経が運動の根元であり、病の根元を考え治と不治を分けて施療し、無病を知ることで有病を治し平生に復帰させること、を説いている。
小堀正次(遠州)の末で高岡町奉行の小堀八十大夫政保(千石、在任:文化七年三月〜文政四年五月、文政二年二月〜同三年三月と同年八月には射水・砺波郡奉行を兼任)は、農政にも詳しく(町奉行退任後には改作方御用)、かねてから南兵左衛門(善右衛門の子、十村制度の一時廃止で文政五年より射水郡年寄並)と懇意であり、南家を訪れることしばしば、幸庵もまた同家へよく出入りしていた。八十大夫に従っていた松井利(理)右衛門は、好学の徒として知られていた嫡男の藤馬清臣を同道することがあり、藤馬も医者を志していた。文政八(一八二五)年、体調を崩した幸庵は兵左衛門の薦めもあり、帰郷した藤馬を養女の婿に迎えることに同意した後、二月二十七日四十七歳で卒。

二、高峰玄台
 玄台は犀江や赤松青・梧門・雲翁などとも号し、万延元(一八六〇)年底本『高岡詩話』に「性沈黙有義」の人であった。六十七歳で矍鑠していたというので、安政元(一八五四)年の記とすれば、生まれは天明八(一七八八)年であろうか。
 松井藤馬は幼少期から学問好きで、文化十一(一八一四)年に町の指導者長崎蓬洲と粟田佐久間が富山の漢学者 島林文吾(この頃富山で私塾も開き、眼科として兄の跡に藩医を継承)を招き、聖安寺中の安乗寺を借りて、孟子・唐詩選等の学習会を開いた際には、町医者子弟の長崎浩斎、粟田庸斎、渡辺玄碩、内藤伊織、佐渡竜斎(八代目養順)などともに学んでいる。このような医者の友人が多かったためか、藤馬は剣術よりは医術に関心が向きつつあった。やがて身分は低いながら、加賀藩を代表して江戸の昌平黌に留学したが、朱子学の研鑚と並行して医学書を読んでいた。こうなるに至っては、父の利右衛門も藤馬を家士にすることは断念し、南兵左衛門の斡旋もあり、文政八年に高峰家へ入ることとなった。
 高峰家を継ぎ、玄台と称することになると、あらためて上京し究理堂(龍門楼)の小石家で解剖人体図を用いた蘭方医術を学んでいる。帰郷後、養父の代と同様医業は多忙であった。天保七(一八三六)年は未曾有の凶作であった。夏に雨がちで、八月十三日昼には大暴風雨で諸川が氾濫し、二十日に山寄で丸雪が降った。新川郡では早月川が栗山より入川している。加賀藩は富山藩を含む領外への食料移出を禁じ、移入を奨励して新米の出回り促進策を実行する。さらに高岡町奉行と町会所の措置として、玄台が札持参者に朝五ツより施薬を行い、十月見合札所有の極貧者には昆布入粥を一合二文・一升二十文、稗もみこぬか等一升三十文・仕立いり粉一合三文、稗ぬか仕立いり粉一升二十文・一合二文、いりこ団子十個十五文・一つ一文半で売出した。
門人も抱えていたようで、前田良策(文政三年に氷見胡桃原村の生まれ)は、天保十二年三月から嘉永元年十二月まで玄台に内科と種痘術を学んでいる。この頃の高岡町奉行は以前実父と仕えていた小堀八十大夫の子金五右衛門政令(在任:天保十三年五月〜嘉永六年三月)であるから旧知の間柄であり、交流があったと思われる。
それでも漢詩の吟詠は趣味の域を越え、文政九(一八二六)年には松映房社(前年に関野神社前から越後屋太助を楼主とする陸舟楼に移転)に加わり、富山の江尻譲斎(宗叔)は毎月高峰家に泊まって参加していたという。詩文に『犀江吟草』があり(所在不明)、『春藻錦機』や『高岡詩話』に載っている漢詩は、日々の生活を愉しみ、自分の人生に後悔は無い、というような明るく前向きなものである。これまで充実していた。子供が三十歳に近付き孫の顔を早く見たい、富を求めず、家を斉え欲張らず、仁を知るとともに、朝起きては鳥に学び、晩は適度に飲酒し、残された人生を意義あるものにするため、世間の縛りを脱しよう。これが玄台の望むことであった。すると嘉永七年九月に孫が生まれた。
男子誕生と家の繁栄を願う玄台は、蘇東坡の「三槐堂銘」を読んで庭に槐を植えれば子孫が出世すると考え、槐を庭に植えて毎日「鬱々たる三槐、惟徳の符」と称えていたら、文政十(一八二七)年に嫡男の元稑が生まれたと伝う。槐は明治十二年の大火で焼失してしまったが、その前に元稑改め精一が金沢の屋敷門左右に苗木を移植している。その後に娘二人が生まれ、高岡町の米屋弥三兵衛と藩士岩田忠蔵に嫁がせた。弥三兵衛の弟は玄台に入門、安政五(一八五八)年には金子・長崎等の町医者とともコレラ対策に奔走し、八月二十五日から体を温める煎じ薬を布袋付で三日間に約一万五千帖を施薬する。慶応元年には養子として高峰幸庵を名乗り、明治三十七年まで主のいなくなった御馬出町の高峰屋敷を守った。明治四年三月には博労町極楽寺庫裏に設立された金沢藩の医学館高岡出張所で窮民の診察にも当たっている。
玄台は医院を門人に委ねて精一とともに金沢梅本町に移り、譲吉達孫の相手をしながら余生を過ごし、慶応元(一八六五)年正月二十五日に卒した。

三、高峰元稑
 文政十年の元稑の誕生は晩婚の玄台にとっても、また高峰家にとっても、念願というより悲願が達成した瞬間であった。
後の元稑こと剛太郎は、親の期待を超える人物に成長する。幼年時より内外の学問に興味を持ち、物怖じしない性格であった。南家には茶や詩を習いに通い、風雅の道にも通じていた一方、頼山陽の子で安政の大獄で処刑されることになる頼三樹三郎が高岡に逗留した際には、親の書風を真似るとは不見識だ、と意見したそうである(南兵吉談)。号は槐処または槐窓、父玄台の逸話にちなんだ。天保十四(一八四三)年三月上京して小石元瑞に、弘化二(一八四五)年四月江戸で坪井信道に就くこと計七年、西洋医学や化学にどっぷりと浸かる。同門(天保十四年入門)が高岡町出身の佐渡良益こと後の坪井信良である。嘉永二(一八四九)年、元稑二十三歳の時に帰郷し、父を助けて医療に従事する。
嘉永五年に結婚したようで、相手は津田弥右衛門喜三次の娘幸子(ゆきこ)である。津田といえば幸庵を招いたあの塩屋(鶴来屋)であり、喜三次の字は操、子薫、号は半村や鶴堂・松齊・寿芳園。寛政九年中川の南家に生まれである。文政の頃に当時酒造業を営んでいた津田家の養子に入るが、二十七歳で養父を失った。専龍寺の顧行に経文を教わり、島林文吾(号雄山)に詩文を学んだのであるから、玄台とは学友でもある。その後に京で頼山陽に師事。書堂を棲鳳楼又は清足軒という。嘉永元年十月十日に山陽の三男三樹三郎鴨崖が高岡の町で国事を議し、小杉の自家造酒屋で宿泊している。また長崎浩齋らと漢詩吟松映房社を興した。町役人としては町算用聞並祠堂銀才許を努める。祠堂銀才許とは瑞龍寺の祠堂銀運用役のことで、当時瑞龍寺は年一割の低利で町民に融資し、寺の財源確保と町の商工業の発展に寄与していた(利息の二分が才許人の手数料で八分が寺社奉行所に入った)。天保の頃には茶苗を宇治から取り寄せ、栽培している。来訪者が多く、広瀬旭荘が来た際、潤筆料があまりに高いため、「旭荘ではなく欲荘だ」と言った逸話がある。明治四年二月に没した。長女幸子は高峰家に、次女のいつは木津家に嫁ぐ。高峰家は津田家と南家につくづく縁が深い。幸子は嘉永七(一八五四)年九月十三日に横田西町の実家茶室で嫡男譲吉を産み、安政四(一八五七)年に節子(南兵吉の妻)、万延元(一八六〇)年に貞子、文久元(一八六一)年に順子(竹橋尚文の妻)、元治元(一八六四)年に退二、慶応元(一八六五)年に栄三郎(藤井家へ養子)、同二年に三郎、明治元(一八六八)年に十九子(能久治の妻)、同二年に十三子、同三年にせい子(田島吉右衛門の妻)、同四年に五十子、同六年に享一郎、というように多産であった。明治二十七年四月二十九日に卒。
さて最新の西洋医学に通じた元稑の名は藩内に広まり、新川郡出身で藩の西洋技術導入を任されていた同じ坪井信道門(天保十二年入門)の黒川良安が元稑を口説き落とし、金沢に招く。最初は町医者として金沢新竪町に借家を借り単身であったが、この間に嫡男が誕生し、安政二年には加賀藩より壮猶館(西洋の軍事研究と訓練)舎密方(化学)臨時御用に任じられて、化学実験に明け暮れる生活を送る。公的には昇卜部紳(つかね)と称していたようである。九月に妻子と父を呼び寄せた。二十年間に五回居を替え、屋敷には蒸留器(アランビック)やフラスコ・ビーカー等の実験器具やオランダ語の書籍で満たされていた。壮猶館では蚕の蛹から硝石成分を取り出す伝統的手法を復活させることに成功する。木の桶を使い薬草と水を加え四十〜五十日低温で化学反応させ硝酸銀を作り、木灰のアルカリを加えてゆっくり冷まし硝酸カリを沈殿させるのである。
以下は「先祖由緒並一類附帳」より。
安政二年二月壮猶館舎密方臨時御用(三十六俵二斗六升三合)、五月土清水で西洋流製薬、七・十二月に銀子被下、同三年十月御細工奉行別支配・壮猶館舎密方御用(七人扶持)、同六年二月御医者と壮猶館舎密方御用を兼帯(十人扶持)、五月に前田慶寧を診察、万延元年三月大桑製薬所御用、十一月前田斉泰を診察、文久元年壮猶館翻訳方御用と校合方御用を兼帯、十二月前田慶寧を診察、同二年壮猶館医学試業と蘭医書会読方御用を兼帯、同三年四月御軍艦方御用を兼帯し能登所口で石炭等を見分、三州(加賀・能登・越中)へ出張、六月顕光院・初姫を診察、元治元年正月初姫を診察、七月御守殿詰御番、十月初姫を診察、二丸御番、十二月真龍院を診察、慶応元年二月禮姫を診察、三月種痘所棟取、同三年七月英国人通行の節に旅宿詰、十一月前田慶寧上京の御供、同四年三月景徳院御迎えのため越後出張、四月養生所棟取、七月前田慶寧の上京に御供、明治二年八月富山藩医学所と病院創立のため富山へ出向、同三年正月権少属・医学館教師、九月民政掛
このように研究者としても医者としても忙しく窮屈な城勤めをしながら、石高は百石十人扶持に達したという。仕事面では黒川良安と共にすることが多かったと思われ、医書ならともかく軍艦の動かし方や機関の構造、兵書の翻訳などは門外漢であるから、特に文久年中は戸惑いながらの勤務であったろうが、それだけに学問上の刺激は大きく、日々充実していたのかもしれない。藩は元治元年に石炭発掘のため筑前国より山師を招き、近江国今津と梅津にあった加賀藩支配地を含む全領内をくまなく調査させた。このときに壮猶館でも高峰元稑は辻安兵衛・鈴木義六などと一緒に舎密方御用で調査に当たる。しかし残念ながら明治維新の前に増産体勢を整えるまでには至らなかった。卯辰山の養生所には慶応元年より関わったようであり、五箇山出身の丘村隆桑と同僚であった。明治二年に精一と改める。同四年に富山藩では西洋医学校を山王町の山田嘉膳邸跡に創立し、教師派遣を金沢藩に要請したため、高峰精一を出向させる。生徒数は最大百四十人で、やがて洋学南校と改称される。同四年四月まで存続した。精一は長居せず金沢に戻ったようであり、廃藩後に石川県医務取締に就任、石川県富山病院長として富山に再赴任したものの、まもなく金沢に帰り開業する。この間に嫡男譲吉は七歳で藩校明倫堂に入学し、慶応元年から安達松太郎(安達幸之助の子息)等とともに長崎へ官費留学を経験(出発前に撮影した写真には父子とも髷がすでに無い)、医者を継ぐ意思の無いことを告げても精一は反対せず、譲吉はやがて渡米し科学者として大成したのである。
ようやく激務から解放されたその後の精一は、本業の開業医として患者の治療にあたりながら、父譲りの漢詩作りを楽しんでいた。明治三十(一八九七)年元旦に詠んだ詩で、譲吉や孫たちに会うため渡米の意思を吐露するが、それは叶わなかった。同三十二年病篤く、譲吉は急ぎ帰国するが、翌三十三年八月二十二日に卒した。

おわりに
 高岡町には蘭方医が多い。町奉行が駐在しているとはいえ、実質的には町人の自治下にあり、技術や学問上での忌避は少なかったように思える。医者たちは神農講を開いて症例研究と情報交換をしながら、医療水準を高めようとしていた。これが高峰幸庵を招き、医者に転じた玄台を迎えた環境であり、町民に蘭方医であることへの反発のようなものは一切無かった。
 今日の医学は自然科学であり、人文科学や社会科学とは別物であるが、かつては医者を志すものは、漢方であれ、蘭方であれ、朱子学を修めねばならなかった。それは理気を理解するためであり、その理解に基づき宇宙を説明し、生命について、人体について考えたのである。西洋医学の知識はこれを補完するにすぎず、手法としての蘭方であった。したがって心を修め聖人を目標とすることと、人体の有り様を知って健康を増進し病気を治すことは、決して相反することではなかった。幸庵や玄台の学んだ医学はこのような学風であり、元稑の学んだ坪井信道はオランダ語の原書を読め文法の講義をするほどであったが、若い頃は儒学をしっかり学んでいる。
 高峰三代が学び育んだ無形資産である学風と志は、医者にならなかったとはいえ譲吉に流れ込み、やがて実を結ぶことになるのであった。「研究・開発・実用の信念を終生持ち続け」「苦境にあっても、切り抜けていく明るさは生来のもの」(『高峰譲吉とその妻』より)、まさに玄台の称えた「鬱々たる三槐、惟徳の符」なのである。
 
参考文献
『高岡史料 下巻』(高岡市、明治四十二年)
『高岡市史 中巻』(高岡市史編纂委員会、昭和三十八年)
板屋小右衛門『春藻錦機』(文政四年)
津島北渓『高岡詩話 巻之二』(万延元年)
塩原又策『高峰譲吉』(大正十五年)
大橋清信「高峰精一と越中蘭学の源流」(『富山史壇 第百七号』、平成四年五月)
飯沼信子『高峰譲吉とその妻』(新人物往来社、平成五年)
正橋剛二「長崎蓬洲の年譜について」(『醫譚 第六十九号』、平成七年十一月)
津田俊治『津田家と高峰譲吉』(平成七年)
津田進三「杉田玄白門人と高峰幸庵について」『日本医学史雑誌 第四十一巻第二号』(日本歴史学会、平成七年五月)
太田久夫「高峰家と高峰譲吉」『北陸医史 第十八巻第一号、平成九年』
飯沼和正、菅野富夫『高峰譲吉の生涯』(朝日新聞社、平成十二年)
「高峰譲吉展」(高岡市立博物館、平成十六年)
「先祖由緒並一類附帳」(明治三年十月)
その他
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2011年10月09日

富山藩の奥組織を作った女性たち


●勝野
勝野は出雲国の赤尾三右衛門清正の娘で、慶長六(一六〇一)年に徳川秀忠の娘珠姫が三歳で金沢の前田利常(八歳)に輿入れした際に召し出される。
赤尾氏は古くより近江国伊香郡赤尾に在し赤尾を治めた。守護の京極氏に仕えていたが、血縁関係にある浅井氏の台頭とともに赤井清綱は浅井亮政の重臣となる。浅井氏滅亡後に長男の清冬が因幡国鳥取の宮部継潤や長房に仕えたが、関が原で敗軍になり次男四郎兵衛が討たれる。嫡男三右衛門清正は関が原以後京極高次に仕え、寛永十一(一六三四)年に高次の子忠高の出雲国松江に転封に従った。三男伊豆守も京極家臣として小浜城築城に才を見せている。
勝野は清正の娘であり、才女の評判はかねてより前田利長の耳にも入っていた。勝野は伊豆守の子主殿とともに利常と珠姫に仕えることになる。元和三年(一六一七年)四月二十九日に利常の次男利次が生まれ傅役を任される。寛永十六(一六三九)年六月の分藩で兄たちと利次に従い富山へ赴き、富山城内の御広式を整備し奥女中を束ねた。父の三右衛門清正も翌同十七年に利次の下に移り、五百俵・銀百枚の待遇を受ける(承応二年没)。長兄の弥三左衛門清治は三右衛門を襲名し、明暦元(一六五五)年八月五百石で寺社奉行と町奉行を兼任した(延宝六年没)。次兄の覚太夫清長は利次の御馬廻として二百石、後に五十石増し呉服御土蔵奉行等を務めた(寛文六年正月七日没)。
勝野の待遇は三十人扶持・金五十両であり、貞享二(一六八五)年まで存命であったというから、大変な長寿であったことになる。その跡は兄清治の孫甚左衛門清房が養子の扱いで継いでいる。利次は勝野に先立つ延宝二(一六七四)年七月七日、江戸城で発病、享年五十八歳であった。なお清房の妹は前田正甫の側室となり、天和二(一六八二)年八月一日に富山で蘭姫を産むが翌年七月二日に夭折、城を出て奥村杢左衛門具頼(四百石、寺社奉行や宗門奉行を歴任)に嫁した。
●大局・表局
前田利家の弟藤八郎良之は、織田信長家臣で清州城代佐脇藤右衛門尉興世の養子となり、元亀二(一五七一)年十二月二十八日に三方ヶ原の戦いで討たれた。若い妻はすでに浅井長政と織田信長妹市との間の長女茶々(後に淀君)乳母であり、その後次女の初が京極高次に輿入れするのに従う。大局と呼ばれていた。慶安四(一六五一)年正月に没というから長寿である。
嫡男作右衛門も京極家に仕え、妻は前田利次の乳母として見出された。表局と呼ばれ、二百石の待遇を受け、江戸で没。子の数馬久好も九歳で前田利常に百五十石で召し出され、利次に付けられた。富山へ従い六百石を受け、その後母の遺知と合わせて八百石となる。御先手頭・御馬廻組を務め、百石加増で寄合所加判・御城代に就任、二代正甫にも仕えている(延宝四年三月十九日没)。
●八尾
前田正甫の母八尾の実家は、八尾東町笹原屋彦治(田畑家)であり、利次に見初められ側室になる。その関連であろうか義兄の柴田権之亟も勘定所支配・五十俵、五百歩の屋敷を拝領して出仕した(後に出家し以信を名乗る)。
以信の嫡男が武庫川家を継いだため後継がいなくなったのを八尾は憂い、以信の甥にあたる清九郎を呼び出し、養子として以信と暮らすよう説く。以信は七人扶持を与えられ、宝永六(一七〇九)年に没。継いだ清九郎定友は翌年尾崎姓に改めた。八尾はこれを見届ける前、元禄九(一六九六)年十二月二十日に没している。
●御局
武庫川家の出身で、富山城に出仕し、前田正甫の時に二百石の待遇で御局と称される。柴田以信の一人息子兵右衛門光昌を養子にし、宝永三(一七〇六)年三月八日に没。武庫川兵右衛門光昌は正甫の近習役として高田城接収に御供、その後遺知として百七十石を継ぐ。
●前田利與の乳母(名は不明)
岡本嘉平治の姉は、元文元(一七三七)年十月十九日に富山で前田利隆の四男状之助(芸之助、後の利與)が生まれると乳母として選ばれ、江戸下屋敷惣女中筆頭に就任、御擬作十人扶持・月に金三歩(分)宛・御給金二両一人扶持の待遇を受ける。兄の嘉平治も御擬作二十俵で中坊主組に入り利與に付き、宝暦十二(一七六二)年十月に藩主に就任した利與の御供で江戸へ行く。明和六(一七六九)年正月に御徒組に転じたが四月に没。
利與は藩主に就任してから幕府からの御手伝普請に明け暮れ、財政の逼迫に苦しめられる日々であった。安永六(一七七七)年に隠居し、寛政六(一七九四)年八月二十二日、享年五十八歳。
翌同七(一七九五)年三月に奥女中の務めを全うし江戸屋敷から富山へ移り、同九年病気重く、三月中坊主組館野文之進の次男兵右衛門を養子にして十月に没。

(参考) 加賀藩 
●幾佐
慶長十四(一六〇九)年に八歳で前田利家の娘千代姫(長姫とも、天正八年五月七日〜寛永十八年十一月二十日、六十二歳)に仕える。千代姫は細川忠興の嫡男忠隆と結婚するが離別し、村井長次に嫁ぐ。幾佐は千代姫卒後に前田利常から召し出され、小松に一年仕えた後、幼い綱紀の御付として江戸へ派遣された。この時に今井と改め年寄女中に就任する。
 寛永八(一六三一)年六月病を得て、長谷川大学の三男を養子にする。その直後に没したか。大学の娘も養女にし、津田宗七郎に嫁いだ。養子は戸田小源太と改め、寛文九(一六六九)年に五百五十石を拝領するが、同十三年九月に江戸で没する。この跡は延宝四(一六七六)年津田宗七郎次男鞆負直方が二歳で継ぎ、元禄六年に七百石、同十二年に寄合へと進み、戸田斉宮を称す。
●少将局
前田利家の正室まつ(芳春院)に召し出され、慶長十一(一六〇六)年に百五十石、元和三(一六一七)年にも百五十石を加え、後に少将局と呼ばれていたのを妙正と改めた。夫の橘半入も百石で利常に仕え、妙正は寛永四(一六二七)年に没するが、甥の加藤治太夫を養子にした。治太夫超勝は小松代官や御郡奉行等を務めた後、前田利次に従い富山へ移る(延宝五年没)。
●お花之方
前田利太(宗兵衛、慶次郎)の娘は前田利長に仕え、お花之方と称した。兄の正虎(安太夫)は本阿弥光悦の門下で草書を能くし、風流人として能登で暮らしている。お花之方は後に有賀左京に嫁し、大聖寺藩士山本彌右衛門に再嫁した。
 

『富山藩侍帳』(桂書房、昭和六十二年)
『富山藩士由緒書』(同、昭和六十三年)
『吉川随筆・前田氏家乗』(同、昭和六十三年)
『加賀藩史料 編外』(前田家編輯部、昭和八年)
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2011年08月24日

砺波屋伊右衛門を通して見た町人の活動


 高岡の漆芸家辻丹楓について、従来その名は高岡漆器創生者として知られていたものの、人物についてはほとんど顧みられることはなかった。しかし近年の一戸渉氏等による調査で明らかになりつつある。

一、砺波屋伊右衛門の略歴 
砺波屋伊右衛門は享保七(一七二二)年頃に砺波郡辻村(現高岡市辻、祖父川右岸で射水郡の境近く)に生まれ、苗字は辻、兄の小左衛門は農業の傍ら手先の器用さを生かし、張物や壁・桶を作り、大工の仕事までこなしていた。伊右衛門は病弱であったが、そのような兄をまねし小刀で彫刻を覚え、獅子まで彫ったと伝えられる。やがて須田村(現高岡市醍醐)の長念寺(大谷派)の寮に養子に行くことになったが、翌年寺に男子が誕生し、実家に戻って分家したものの、農家の力仕事には向かず、一門で協議し高岡町へ引っ越しさせることにした。
家財を売り払い、当時高岡町の中心地域であった御馬出町に出てきた伊右衛門はまさに水を得た魚であり、宝暦頃より御車山の造作や漆芸品を次々製作していった。その間に京で修業し、明和末年には結婚して二代目伊右衛門が生まれるが、程無く妻は病死、文化二(一八〇五)年正月二十七日に八十四歳で没する。名声とは裏腹に借財が少なくなく、二代目は返済に追われ子を成せず、弟子の助松を養子にしたが、結局絶えたという。

二、漆芸家辻丹楓
@高岡の漆芸技術 伊右衛門は丹楓と号し、三十歳代の宝暦頃に京など上方で修業している。京では彫匠の次郎左衛門について堆朱風を学んだといわれる。いわゆる「丹甫塗」(丹楓風の塗り物)とは、乾燥後に灰墨様の古味を入れて仕上げ、擬堆黒・擬堆朱の技法を用いた塗り物の総称である。古味とは、漆塗りした後にマコモ粉や煤玉などの粉を蒔き付け、凹部にこれを残す手法である。堆黒(朱)とは、黒(朱)漆を何層にも塗り重ねて文様を彫る方法であるが、型紙・型材を使って漆錆型抜きの技法で薄肉模様にするのが擬堆黒・擬堆朱である。さらに存星を用いたものもある。唐風の漆芸で、朱・黄・緑などの彩漆で文様を描き、乾燥後に輪郭や葉脈・花弁などの筋を線彫りする。
 漆は落葉小高木でヒマラヤ原産といわれる。わが国には渡来したという説と、もとからあったという説があり、縄文の漆器にベンガラや朱をすりつぶして顔料を作り、刷毛を用いて塗り重ねているものがある。やがて多くの技法が生み出され、漆芸として発展していく。蒔絵は漆で模様を描き、乾かないうちに金・銀・錫などの粉や色粉を蒔き付け文様を施したもの、錆絵は漆に砥の粉を混ぜた錆漆に水分を加えて柔らかくし筆で文様を描いたものであり、厚い肉付きと筆勢が現れるのが特徴であり、絵画的でもある。螺鈿とは貝殻を散りばめることを意味し、平らに磨いた貝殻を切り抜いて貼り付ける技法である。七子は彫金で用いられ、数の子のような魚の卵の細かい集まりを表現する。
 伊右衛門が修業した京では堆朱の導入が遅れ、享保頃にようやく出現するものの、現在には続いていないようである。漆器は唐物ともいわれ、明・朝鮮・東南アジアからの舶来品として、室町以後に禅宗の寺が茶道具として珍重する。琉球では十六世紀以来沈金・螺鈿・堆錦の技法を研究し、わが国の漆器に大きな影響を与える。錆絵技法も煎茶道具を通じて輸入され、「唐物写し」として模倣される。これらの技法は高岡の漆器にも取り入れられていった。
 慶長十(一六〇五)年に前田利長が金沢から富山町へ連れて出た細工人(林久次・山科佐左衛門・青木重右衛門等)は高岡築城の際にも同行し、さらに新川郡大場村からも庄右衛門(大場屋)が移住して指物(箱物木地など)屋を始める。箪笥・長持・針箱・鏡台・膳に漆を塗った「赤物」は全国に販路を拡大する。中には透漆(生漆から水分を除いて透明度を高めた漆で、顔料を混ぜると色漆にもなる)を用いたり、外側を黒塗り・内面を朱塗りの箱御膳もある。元和頃より制作された仏壇は、文化・文政頃に一般家庭へも普及し、佐野理平・飯野仁市等の名工を生み出した。漆は塗師が精製していたが、取扱に注意を要する原料が多くあり、ようやく仏壇塗師三代目の高森与一が幕藩末に大場屋庄左衛門に技法を伝え漆商ができた。
 漆器に用いる原料のうち、顔料の多くを大坂に依存し、朱は硫化水銀、ベンガラ(弁柄)は酸化第二鉄、緑は酸化クロム、黄は三硫化砒素、白は酸化チタニウムを用いる。マコモ粉は茨城産の水草根にある黒褐色の粉末、砥の粉は京から入れる。珪酸アルミニウムであり、布海苔で団子状に固めた。その他、接着剤として膠(動物の皮や骨から作る)、漆の溶剤として樟脳油(樟脳を蒸留)やテレピン油(松科樹木の樹脂を蒸留)を使い、全国から移入している。
 高岡町の漆器は城端の白漆とは異なる発展をする。城端では小原家を中心に蒔絵の技術が深化し、加賀藩の細工所や富山藩にも城端蒔絵師がいる。高岡にも五十嵐道甫や吉兵衛といった塗師がいたようであるが、金は奢侈品でもあったため定着せず、色漆や彫刻、存星といった技法が成長していった。元禄頃の塗師屋八兵衛の作と伝わる漆絵草花文菓子取は城端塗風ではあるが、ぼかしの手法を用いるなど、細部は異なる。そのような高岡町で培った技法の粋を集めたものが御車山であり、町ごとに競い合うことで、技術がさらに磨かれていった。天保十(一八三九)年八月に加賀藩主前田斉泰が高岡町に宿泊した際、高岡町の職人である板屋小右衛門細工の存清刻硯屏を金二両三分・伊勢領屋桃二細工の堆黒文箱を金一両一分二朱で買い上げた(硯屏とは物の後ろに置く飾り屏風のこと)。板屋小右衛門は半樵亭主の号で『春藻錦機』を編纂する文人でもあり、紅・紫・白等の漆を用い、桃紅色の彩色を得手とした。伊勢領屋桃二は鳴鳳堂の号を持つ御馬出町砺波屋桃造の門人か。桃造は砺波屋伊右衛門の門下とも伝わる(現在鴨島町の渡辺家が末裔)。
 漆器は安土桃山時代から海外へ運ばれ、江戸時代にも長崎から輸出し、欧米コレクター間で日本とは漆器を意味した。ただし高岡町では小売販売の店舗が無いため、製作者が受注販売する時代が長く続き、明治に入ると駒栄善助(道具屋)や米田精平(道三屋)・富田七郎・高池源太郎等が漆器販売を手掛けるが、漆器販売会社の設立は明治四十二年の大坪富次郎(米穀・船問屋・銀行家)による大坪商会を待たねばならなかった。
A伊右衛門の作品 さてそれでは伊右衛門自身の作品は、というと実ははっきりしない。
宝暦三(一七五三)年に小馬出町御車山鉾留(口碑)、同十二(一七六二)年二月に木舟町御車山大黒天と唐子の面(箱書写し)、明和元(一七六四)年に木舟町御車山の胡蝶鉾留(三月飯野仁兵衛作)、天明元(一七八一)年二月に通町御車山高欄(箱書)、同七(一七八七)年暮れに筏井甚右衛門(上伏間江村肝煎)発注の厨子を完成、享和元(一八〇一)年三月に木舟町御車山高欄を製作し、その他には花鳥擬堆黒菓子器、高岡市立博物館所蔵の擬堆黒総盆、木舟町の山水唐草文擬堆黒四重、川原本町の片輪車梅文擬堆黒盆、ほかにも実物が残っていない伝辻丹楓作がいくつもある。また放生津の曳山制作にも携わったとして、放生津中町の曳山、古新町の諸葛孔明像や鏡板、奈呉町や法土寺町の鏡板、新町の標識、立町の高欄や鏡板(井波の番匠屋と共作)等があるものの、確かではない。作品の中には二代目伊右衛門のものや、似た名前の辻九右衛門千江の作品も混同している可能性がある。九右衛門は父から彩漆の技法を受け継ぎ、木舟町の御車山修復や通町布袋和尚の制作に携わっている。つまり確実に伊右衛門こと辻丹楓の作品といえるものは無いのである。しかし高岡の漆芸に名が残っているのは事実であることから、指導者として優れていたのかもしれない。

三、高岡町人砺波屋伊右衛門
 宝暦十一(一七六一)年に起こった木町との曳山騒動では、京に知己の多い伊右衛門が解決のため活動している。
@曳山騒動 宝暦十一年に高岡の木町が御書祭(毎年五月十九日・二十日前田利長の命日に御直筆の御書を見台に飾るという町奉行公認の報恩行事)に際し、二日目に御車山に似せた曳山を出そうとして、御車山を預かる山町(旧北陸街道沿いの通町・御馬出町・守山町・木舟町・小馬出町と周辺の一番町・二番町・三番町・源平板屋町)の一つである御馬出町に貸し出しを願い出て、御馬出町も了承したかのような回答をしていた。これに憤った通町は五月六日に組合頭が御馬出町の組合頭に口上書を送り、反対の意思を表明する。そこで山町の代表が協議し、貸し出さないことを決め、改めて九日付で通町組合頭二人が御馬出町組合頭の平田屋善左衛門と常国屋治左衛門に、木町への御車山貸し出しを差し止める旨通知する。御馬出町が木町へ正式に貸出しを断ると、いったん承諾していたのが断られたことに木町は反発し、高岡町奉行(坂井三郎兵衛・松崎喜兵衛)を介して話し合いを申し出た。通町は各山町の組合頭と協議した結果、町奉行へ御車山の由緒と類似の曳山を認めない趣旨の書類を提出する。事ここに及び木町は借りることを諦め、自身で曳山を作るので毎年曳かせてほしい、九月十六日の神明祭には曳きたい、と町奉行に願った。
 だがその年には結論が出ず、翌十二年三月六日に町奉行から本町と木町の肝煎に対し、木町の願いを認めると告げた。この結果に猛反発した山町は関野神社祭に御車山を出さないことを決め、神主の関三河守(正明・従五位下)に町奉行や木町との仲立ちを依頼する。三河守はともかく木町は曳山を出さず、金沢の判断を待つよう説得しつつ、町奉行・寺社奉行・山町・木町を行きつ戻りつして調整するものの、双方とも主張を変えず、争議と直接関わりのない町々は山町を激励し、町奉行は双方に書類提出を命じ解決に努めるものの、木町の曳山を認めた判断を撤回しなかったため、亀裂は深まる一方であった。ついに六月五日町奉行は通町組合頭三辺屋小右衛門と茶木屋権兵衛及び二番町組合頭三辺屋圓兵衛に閉門、二番町組合頭高辻屋久左衛門に遠出禁止を命じた。
 山町はこれに屈するどころか、七日の夕方に通町の人々が会合し、町奉行へ先の処罰理由を明示するよう強く申し入れ、町内全てが戸を閉めることを通告し、十日から実行に移した。町肝煎が説得しても効無く、すぐに二番町を始め、他の山町や坂下町もこれに倣い、十一日には全十町が戸を閉めた。慌てた町奉行や町年寄(関屋八右衛門・天野屋伝兵衛)が制止するものの無駄で、金沢は三人の閉門を解除することにし、十六日に復職する。
 この間に三河守は寺社方と相談し、京の公卿で神職の吉田家を頼ることにする。五月二十九日付で呼び出しがあり、上京してこれまでのいきさつを説明すると、七月十三日に寺社奉行宛で吉田家から書面が届き、木町に曳山を許す儀は差し止めこれまで通りにすべきである、との内容であった。しかし前日、主上(桃園天皇)が崩御あらせられ、五十日間の服喪が発せられたため、三河守の帰郷は遅れる。
 九月になり吟味が再開されると、木町が京の白河家(藤原北家)等の公家衆に接触し、有利に事を運ぶことを画策していたことが発覚し、町奉行は二十六日に首謀者として開発屋長吉と能登屋仁左衛門、監督不行届として組合頭の松屋次右衛門に入牢を命じた。吉田家から金沢へも書面が届き趨勢は決した。三河守が帰郷すると手続きが進み、御用番村井又兵衛からの指示で十一月二十七日に町奉行は山町九町の組合頭と坂下町組合頭(祭之町)組合頭に町年寄宛書面を渡し、木町の儀は差し止めるので御車山祭はこれまで通り曳くよう達した。すでに祭日(三月十六〜十八日)は終了していたが、御車山を預かる町の人々は十二月八・九日に雪中で曳いた(通町・御馬出町・守山町・木舟町・小馬出町・一番街道・二番町の七基)。
 翌十三年二月五日に町奉行は先に町々が戸を閉めたことを許す旨を告げ、五月二十二日には木町の入牢者三人も赦免され、事件は落着する。
A砺波屋伊右衛門の活動 伊右衛門はこの事件に深く関係していた。居所が御馬出町であることから、また京に知り合いが多いことから何かと頼られている。宝暦十一年五月六日の通町から御馬出町へ真意を問い質された際には、伊右衛門が八日に口上人となって、木町へ回答する前に意見を聞かせていただきたい、と返答している。翌年五月には高岡と金沢を数度往復し、六月に上京して情報収集や連絡調整に努め、七月には金沢、八月にまた上京し、山町有利に解決するため各所で根回しをしていた。
 また富田徳風(横町屋、町年寄)が編纂した『高岡湯話』には、生活に困ったある後家が、伊右衛門の親へ数十年前に貸した金銭の返済を迫り、伊右衛門は一枚の衣で返したとあるが、真偽のほどは不明である。
【参考】漆の生産 加賀藩は寛文六(一六六六)年に漆の植え付けを奨励し、重点産業として保護育成した。後の弘化四(一八四七)年には漆苗代金を貸し付け、砺波・射水郡に四十八万本の植付けを図る。嘉永元(一八四八)年までに二十四万本が達成された。文久二(一八六二)年に漆や櫨の増産を奨励し、砺波郡に漆十六万六千余本と櫨七千九百本の植樹を達している。

四、国学者砺波今道(荒虫)
@建部綾足との出会い 曳山騒動が落着して後、伊右衛門は五十歳の頃、明和八(一七七一)年に上京し、京の烏丸に住んで、片歌の建部綾足(享保四年〜安永三年三月十八日、長崎で絵画を学び、国学・和歌に通じる)に入門し「荒虫」の号を用いている。片歌とは上の句と下の句によって構成され、両方を同じ曲節で歌うのを原則とする短歌で、五七(五)、五七七の歌体である。最初は片歌に抵抗があったが、『万葉集』や契沖(寛永十七年〜元禄十四年一月二十五日、高野山で修業、歴史的仮名遣いの成立にも大きな影響)の『万葉代匠記』を読んで触発される(『いはほぐさ』)。九月に砺波荒虫(あらむし)の名で『いはほぐさ』を出し、尾張前津の横井也有(元禄十五年九月四日〜天明三年六月十六日、尾張藩士であったが宝暦四年に隠居した風流人)が綾足の『とはしぐさ』を論難したことへ、自身を子路(孔子の弟子)に準え、万葉集や日本書紀等を引用し、かつ也有の仮名遣いの誤りを指摘しながら反論する。安永二(一七七三)年に絵を指導するため江戸に下る綾足に従うが、翌年三月十八日に綾足は没してしまう。
A加藤宇万伎に入門 江戸で伊右衛門は加藤宇万伎(享保六年〜安永六年六月十日、幕臣で賀茂真淵の門)と知り合い、綾足没後に入門する。同門には上田秋成(享保十九年六月二十五日〜文化六年六月二十七日、医者、大坂や京に住む)がいる。同五(一七七六)年頃に今道の号で漢詩集『今道集』を出版するが、現存していない。断片的には、安永年に作ったとされる鴨川の東で見た京の夜(繁華街)の情景、帰郷する際に京で見送った山本蘭卿(中郎・封山・有香、高岡出身で本草と古医方)へ送った詩文が、津島北渓(高岡の医者・本草家)の『高岡詩話』に掲載されている。
 伊右衛門は宇万伎が記した『土佐日記』の注釈を写しながら、仮名遣いを訂正する。しかし病気がちであった宇万伎だが、執念で本居宣長(享保十五年五月七日〜享和元年九月二十九日、医者・国学者、『古事記』や『万葉集』等を研究)から借りた『古事記伝』を読んでいたのであるが、六月十日に京で没した。伊右衛門は二十六日に師の借用本を返しに宣長を訪れた。その際に出会った宣長の門人たちとはその後親しく付き合うことになる。特に稲掛茂穂(重穂)こと後の本居大平(宝暦六年〜天保四年九月十一日、宣長の養子になり鈴屋社中を拡大する)とは親密であった。十月十八日に茂穂は富小路夷川に住んでいた伊右衛門を訪ね、賀茂真淵や加藤宇万伎の本を、十一月二十八日には上田秋成や加藤宇万伎、そして伊右衛門こと今道の歌などが掲載された和歌詠草(和歌の下書き)を借りて写している(『八十浦之玉』を編集)。
十月に発刊した『喉音用字考』では、宇万伎の説を冒頭に引用しつつ、宣長の著書から多くを引き、上田秋成が宣長との論争の際にはこれを大いに参照したという。秋に伊右衛門は秋成を訪ね和歌を詠みあい、菅原好和(菅原道真の末で伏見の医者、苗字川口、字三郎、号西涯・丹宮、本居宣長とも交際)と知り合う。
B古代の音韻に関心を深める この頃伊右衛門は漢字の音について富森一斎から学ぶところがあり、「い」と「ゐ」等、古代語の音に強い関心を持つ。一斎は藤原直養『韻鏡藤氏伝』(明和六年)の序文で、南宋の音韻図を研究した文雄の『磨光韻鏡』(延享元年)を補正した(泰山蔚はこれを批判)。
 同八(一七八九)年から天明元(一七八一)年まで高岡に帰郷していたため、茂穂は連絡が取れないことを嘆き、京に戻った直後であろう八月十九日の夕に有馬温泉へ行く途中と称し会いに訪れ、伊右衛門は茂穂に内池益謙(京の医者で後に江戸在住、宇万伎にも入門)や橋本経亮(朝臣・梅宮社正禰宜、小沢蘆庵のもとで山本蘭卿とは和歌の同門、京で本居宣長を仲介)を引き合わせた。帰路も九月二十一・二日に訪れ、『万葉集』の話で盛りあがる。
 同六(一七八六)年に伊右衛門は宣長と論争中の上田秋成を大坂に訪れ、古代の音韻について議論した翌年に高岡へ戻っているが、寛政元(一七八九)年一月に京で大火があったこともあり、京へはしばらく戻らなかった。真淵や宣長の門人栗田土満(遠江国平尾八幡宮祠官)が訪れるも、会えなかったことを残念がっている。
 高岡では寺崎蛠洲(宝暦十一年〜文政五年、三木屋半左衛門、町年寄)等は伊右衛門の門人になり、蛠洲が京で出した『狐の茶袋 初編』(文化十三年)には、荒道として片歌や仮名遣いについての解説と句を載せる。
 地獄の桜
  花ぬすむ影までうつす鏡かな
 真の真
  火の中に有ともしらぬ鵜舟哉
 ようやく上京したのは享和三(一八〇三)年頃であり、八十歳をとうに超えていた。秋成と親しい越智魚臣(宣長と秋成の論争を記録)は、『万葉集傍注』巻七・八に伊右衛門(今道)の指摘した漢字の読みや誤記を引用している。
 伊右衛門が没したのは二年後の、文化二年正月二十七日であるが、終焉の地は高岡であろうか。他に、現存しない著作には『小貝』もある。

 伊右衛門は高度な技能を持つ漆芸家であり、著作もある学識者であり、さらには高岡町人としての責務も果たしている。それゆえ以前は一人の人物であると断定できなかったほどである。家庭的には決して円満であったとは言えまいが、二百年以上前の高岡に現れた傑物であることへの認識を、われわれは新たにするべきであろう。

【参考文献】 順不同
一戸渉「礪波今道と上方の和学」『近世文藝』第八十七号(平成二十年一月)
一戸渉「礪波今道年譜稿」『総合研究大学院大学文化科学研究』第四号(平成二十年三月)
富田徳風『高岡湯話』(高岡市立中央図書館)
津島北渓『高岡詩話』(高岡市立中央図書館)
『狐の茶袋』初編(文化十三年、高岡市立中央図書館所蔵)
『高岡の町々と屋号』(高岡旧町諸商売屋号調査委員会、平成五年)
『高岡市史』中巻(高岡市、昭和三十八年)
「高岡御車山記録」『重要無形民俗文化財 高岡御車山調査報告』(高岡市教育委員会)㈡(平成七年)、㈢(平成八年)
『高岡御車山』(高岡市教育委員会、平成十二年)
『日本漆工 高岡漆器』(㈳日本漆工協会、昭和五十六年)
『高岡漆物語』(伝統工芸高岡漆器協同組合、平成八年)
『本居宣長事典』(本居宣長記念館、平成十三年)
『国書人名辞典』(平成八年、岩波書店)
       その他、地名辞典や人名辞典
更に、
高岡市立博物館ウエブサイト
(http://www.e-tmm.info/syuuzou/gituikoku.htm)
伝統工芸高岡漆器協同組合ウエブサイト
(http://www.chuokai-toyama.or.jp/~shikki/gal/gally3.html ) 
いこまいけ高岡 
(http://takaoka.zening.info/Hikiyama/Tsuji_tanpo.htm) 
等を参照
       
擬堆黒総盆(高岡市立博物館所蔵)
木舟町山車の後屏
通町山車の後屏
奈呉町曳山の鏡板
古新町曳山の鏡板
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高岡で起きた心中事件と役所の対応


はじめに
 一般的に「変死人」の検使は、享保九(一七二四)年三月の公事場奉行通達で、公事場から出張して行うものとされていた。これが煩わしいとの反対があり、寛政六(一七九四)年には町奉行に任され、町下代(犯罪取締り・定員二人)と町附足軽が行うものと改められるが、この間の寛保三(一七四三)年と明和九(一七七二)年に高岡で心中事件が発生した。前者は町方と郡方、後者は京都も関わる事件であり、これらをどのように処理したのであろうか。

高岡市古文献資料(桜馬場両端並ニ大仏前辺地境申分図)

一、寛保三年の事件
@概要
 寛保三年八月二十二日の朝、御坂馬場(桜馬場から末広町辺り)から足軽町(白銀後町)へ至る道脇は下関村領であったが、その畑の中に脇差で咽喉を掻き切った男女の遺体が発見された。直ちに町奉行(沢田次兵衛・渡瀬弥次右衛門)へ報告が行き、男は砺波郡立野村指(さっ)崎(さき)屋五兵衛の倅で五郎兵衛、女は風呂屋町立野屋小兵衛の姪きわ(二十二歳)、と判明する。
A調査
町奉行は砺波郡を管轄する小杉新町の御郡所へ連絡し、そこから金沢の公事場へ飛脚が走った。公事場では郡奉行(葭田(あしだ)六左衛門直貞・菅野内右衛門正倚)に検査を命じ、二十二日葭田(延享三年に高岡町奉行に転任)自ら場所を見分するよう指図があった。
郡奉行の見分には立野村から肝煎、東海老坂村(十村上坂五兵衛)・内嶋村(同佐次右衛門)・大白石村(同石川又太郎)・埴生村(伝右衛門)からも手代(十村の部下)が同行した。現場では見物人が大勢出ていたため、整理を足軽一人に任せて調べを行った後、金沢に戻った。
夜には小杉から足軽の山内和左衛門が男の骸を調べに到着し、女の方は高岡町の管轄であるから番人を出してほしいとの要求がある。更に下関村組合頭の又助からは高岡町会所(町年寄は天野屋伝兵衛・菱屋源兵衛等定員約四人)の当番肝煎(町肝煎で高岡町総代・定員四人)三木屋半右衛門へ、見物人整理のため御坂の道と足軽町に垣を作るべきとの提案があった。これらに対し、半右衛門は従来高岡町の者が郡方領内で亡くなっても番人を派遣した例は無く、それに往来道に垣を作るのは容易なことではないことを承知してほしい。番人については町奉行の指示があれば出すので、郡方の足軽から町奉行へ要請してほしいと返答する。
町奉行は二十二日付書状で郡奉行へ女の身元を伝えると、郡奉行は二十四日付書状を発し、女の身元については承知したことと、こちらでも十村から聴取し公事場へ報告したこと、郡方から検使の足軽を派遣したこと、そちらから女の骸を引き取るため人を出してほしいこと、公事場へ提出する検使書付作成のこと、を伝えた。
御郡所から山内に続き足軽の田中甚八も高岡町に派遣される。高岡町奉行は女の骸を受け取りに町附足軽の千田藤左衛門と宮野貞右衛門を行かせ、きわ(・・)の伯父である立野屋小兵衛と立野村から五郎兵衛の親類も来た。七ツ過ぎには調べも終わったので、事件発生現場が郡支配地であるため町方が郡方に請取を渡して、それぞれが骸を受け取り帰った。
 二十四日付口上書で小兵衛は郡奉行へ、きわ(・・)が二十二歳であり、一向宗・砺波郡立野村西念寺の檀那で切支丹末類ではないこと、皆様を煩わせ申し訳ないことを陳べ、高岡町肝煎として三木屋半兵衛がこれを保証している。また町奉行へは小兵衛ときわ(・・)の姉ひろ(・・)、妹のそう(・・)が事情を申し述べている。その中に、きわ(・・)は町で働いていたが、夏頃から五郎兵衛と密通し、両人が申し合わせてこのような行動におよんだのであろうこと、を証言した。同日付で町奉行は公事場奉行(菊池十六郎・品川主殿・富田織部・藤田求馬)に、特に替わったところは無かった旨を報告する。
 五郎兵衛の持ち物を調査したら、鼻紙入の中からきわ(・・)の書置が見つかった、と内嶋村手代の善兵衛と東海老坂村手代の豊四郎が、同日付で半兵衛に知らせてきた。そこには次のように、どこへ何を預け、誰からどれだけ借りたかが記されていた。

一、 あんとう壱ツ きれしや三右衛門殿
一、壱升鍋弐ツ    同人
一、口なへ一ツ    同人
一、ぬりなへ一ツ   同人
一、 七寸かゝミ一まい 同人
一、 くし箱一ツ    同人
一、 かうかいすへまき 同人
        色々有
〆 右預ケ置
一、 三百拾五文 かり 笠屋又兵衛殿
一、 四貫文   かり 白崎屋圓兵衛殿
    此方
一、 あわせ弐ツ
一、 わた入壱ツ
一、 きぬおひ一ツ 立すし
一、 かたひら四枚

一、 長持預り置色々 ふろや町甚兵衛殿
右之通御座候此外ニかり銭壱文も無御座候、右又兵衛殿かり銭ハ三右衛門殿預置候物ニ而御算用被成可被下候 風呂屋町甚兵衛様へ申上候、私きるいをかわりニ御立被成候而、私死骸ヲ御かくし可被下候 いもと之儀かわいと存し候間如何様共御かくまい奉願上候、私儀ハ大悪人ニ而御座候、前々約速(ママ)かため置候へとも、とかく先之親様方世間之道茂立不申と被申候而如此ニ御座候 以上
外ニ五百文 宿ちんかり御座候
 八月廿一日         おき

半兵衛はこれを受け取り、書置の通り衣類を売って借金を精算して、残った衣類は遺族に分配したことを、善兵衛と豊四郎に知らせている。
なお、五郎兵衛の住んでいた立野村には定駅馬を置いて蔵宿があり、菅笠(立野笠)が特産品である。この頃の田地高は六百七拾五石・畑屋敷地四十三石、家数九十七軒で、商売人は十九軒であった。実家である立野村の指崎屋五兵衛は町蔵宿の保証人を務め、元文五(一七四〇)年に給人蔵宿を命ぜられている。

二、明和九年の事件
@概要
 明和九年五月一日早暁、高岡御旅屋番人の次郎右衛門と伊左衛門が構内を巡視していると、門前の樹林内に男女の骸を発見した。直ちに御徒の岸九郎右衛門等へ届け出、そこから町奉行小川八左衛門と大野仁兵衛へ急報した。町奉行は直ちに足軽千田才右衛門等を派遣し調べに当らせ、同日中に公事場奉行前田権佐・永原求馬等へ報告した。町肝煎三木屋半左衛門が調べると、男は二丁町の医者小芝杏仙と判明、女の身元照会には手間取ったが、すぐに京都村久保今町萬屋利兵衛の娘きく十八歳と分かった。
A調査
 公事場は与力笠間儀兵衛と山本武兵衛を検使として派遣し二日夜に到着、三日に骸を検視する。杏仙の母くめを尋問すると、あらかたが判明した。
 くめの夫である正仙が四年前に病死したが、すでにその頃に杏仙は京都へ医者修行に出ていた。今年二十一歳になり、四月九日にきく(・・)を連れて帰郷した。金沢の者であり妻にしたいという。だがまだ親類や組合にはこのことを話さないでほしいというので、その通りにしていたら、二十九日五ツ時過ぎに京都二条河東先(ぽん)斗町(とちょう)(遊女屋等のある遊興街)の美濃屋市兵衛と名乗る人が尋ねてきて、杏仙と話をしているのを聞くと、きくは美濃屋の下女で、給銀を前借して幼少の頃から年季奉公していたのを、帰郷するに当り密かに連れ出したとのこと。市兵衛はきく(・・)の踪跡を捜索し、高岡に潜伏したことを知り取り戻しにやってきた。しかし双方離れがたいのなら、まず女の親とも相談し、こちらで前借分を精算してもらえればそれでよいと言う。それに対し杏仙は、きく(・・)ともどもこのようなことをしたのは申し訳ないが、給銀を返済することは容易ではないと返答したところ、市兵衛は杏仙に、今日は木戸も閉まるので帰るが女は返すよう言い、組合に届け出るからと組合頭並びに町頭の名を尋ねたので、くめは小馬出屋八郎右衛門と組合の桶屋左平を教えた。市兵衛が去った後、杏仙は母親のくめ(・・)へ正直に話し、市兵衛の申し分は無念であると言うものの、特に外出などもせず、また戸外にも異常は無く、夜四ツ時までには両人とも寝た。しかし翌朝くめが起きたら、両人ともどこにもいない。やがて御林の内でともに相果てたと知り驚くことになる。
 杏仙が用いた刃物は平生帯びていた脇差であり、骸の辺りに酒樽と椀があったのは、今が最期と思ったか、日頃は飲まない酒を飲んだものであった。くめの申し出によると、切支丹末類ではなく宗旨は一向宗、檀那寺は専福寺であり、骸を杏仙の弟に当る宅之助に渡されることを願い出た。
 しかし、この事件はこれで落着しなかった。女は他国者であり、事務取扱が容易にはいかない。五日に藩老の前田駿河守孝昌は町奉行に命じ、調査結了まで両人の骸を塩詰にさせた。また二丁町屋清右衛門と小馬出屋八郎右衛門に対し、他国者(美濃屋のこと)を止宿させたにもかかわらず、その届け出をしなかったとして、町奉行預けとした。美濃屋市兵衛は、一切が終わるまで旅籠町茶木屋次郎兵衛方に留め置かれる。駿河守は京都町奉行に委細を伝え、京都町奉行所詰人は、きくの親である萬屋利兵衛と市兵衛名代よしを呼び出し尋ね、市兵衛の申し分が正しい事を確認したので、二十一日付で駿河守は高岡町奉行へ、女の骸を市兵衛に渡して帰郷させ、帰着したら番所に出向くよう伝えることを命じた。美濃屋のよし(・・)は翌日付高岡町奉行宛書類で、きくは切支丹末類ではなく禅宗であり、葬儀も禅宗で執り行うべき所、杏仙と一緒に果てたのであるから、杏仙の檀那寺である専福寺に頼みたいこと、市兵衛も葬儀に出席してから帰郷するので、それから番所に出向くことにしたい、と願い出ている。
おわりに
 最初の事例は事件発生場所が郡方、男が郡方で女が町方である。郡奉行に調査責任があり、検視には郡方からは足軽と十村手代及び事件現場の組合頭、町方からは足軽と町会所当番肝煎が出た。公事場へは報告するのみで、特に指図を受ける必要はなかった。発生が八月二十二日で落着が二十四日と短い。
次の事例は発生場所が高岡町で、男も高岡町人だが、女は京都に籍がある。当初の調べは高岡町で行ったが、国境を跨ぐ事件でもあり、公事場が直接に指揮して検視を行った。更に藩老を通じて京都町奉行所にも照会が必要であった。したがって発生が五月一日で落着が二十一日である。
心中事件は男女の悲恋であり、人々の同情を得やすい。人形浄瑠璃等の演目にも入っている。しかし越中国内では事例が少なく、取り上げた高岡の二例にしても、人々の注目はその場限りであったようである。暮らしに余裕が無かったのでないとすれば、大坂町人のように事件を物語にまで膨らませる、“文化力”がまだ不足していたのかもしれない。越中国や高岡で寺子屋や学問が一般的になるのは、文化・文政期以降である。

主な参考文献
「越中高岡紀事 不歩記」『富山県史 史料V』(富山県、昭和五十五年)
『富山県史 通史V』(富山県、昭和五十七年)
『立野史料総覧』(京谷史陽編、平成四年)
『高岡市史 中巻』(高岡市、昭和三十八年)
『高岡史料 下巻』(高岡市、明治四十二年)
『越中史料 巻之二』(富山県、明治四十二年)
『高岡の町々と屋号 第5号』(高岡旧町諸商売屋号調査委員会、平成九年)
『高府安政録・射水通覧』(高岡市史編纂委員会、昭和三十四年)
『射水郡十村土筆』(小田吉之丈編、昭和六年)
『小杉町史』(小杉町役場、平成九年)
『角川日本地名大辞典16富山県』(角川書店、昭和五十四年)
『富山県の地名』(平凡社、平成六年)
『加越能近世史研究必携』(北國新聞社、平成七年)
                      順不同
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伏木への黒船来航と加賀藩・富山藩の対応

伏木への黒船来航と加賀藩・富山藩の対応
1黒船が日本近海に出現
●文化以降の異国船事件
文化二(1805)年三月十九日ロシアのレザノフが通商を拒否され長崎を退去
同三年九月十一日ロシア船が樺太を侵略
同四年四月二十三日ロシア船が択捉を攻撃
同年同月二十七日アメリカ船が長崎に来航
同五年八月十五日イギリス船フェートンの長崎侵入
同八年六月四日ロシア船長ゴローニンを国後で捕縛
同九年八月十四日高田屋嘉兵衛が国後海上でロシア船に享捕
同十三年十月イギリス船琉球来航
同十四年九月イギリス船関東沖出
文政元(1818)年五月十四目イギリス船浦賀に来航
同七年五月二十八日イギリス捕鯨船員が常陸大津浜に上陸し、水戸藩により逮捕
同年七月八日イギリス船トカラ島を侵略
同八年五月二十六日イギリス船陸奥沖に来航
天保八(1837)年六月二十八日浦賀奉行がアメリカ船モリソンを砲撃
同十三年七月阿片戦争で清が降伏
弘化元(1844)年三月フランス船琉球来航
同年八月四日オランダ国王の親書
同二年三月十二日アメリカ船が漂流民を護送し浦賀に来航
同三年四月五日アメリカ船琉球来航
同年同月七日フランス船琉球来航
同年五月十一日アメリカ捕鯨船が択捉に漂着
同年閏五月二十七日アメリカ東インド艦隊が浦賀に来航
同年六月七日フランスインドシナ艦隊が長崎に来航
同年七月二十八日デンマーク船が相模沖に仮泊
同年八月二十三日イギリス船琉球来航
嘉永元(1848)年五月七日アメリカ捕鯨船が西蝦夷に漂着
同二年三月二十六日アメリカ船プレブルが長崎に来航し、漂流民を回収
同年閏四月八日イギリス船マリーナが測量のため浦賀・下田に入港
●文化の露寇
文化三(1806)年九月十一日樺太のクシュンコタン(大泊)を襲撃
同四年三月二十二日東西蝦夷地の直轄を決定
ロシア軍は四月二十三日に択捉島を襲い、二十四日ナイホ(内保)の番屋を焼き払い、二十九日会所があるシャナ(紗那)沖合いを砲撃
幕府は防備を固めるため、松前藩には陸奥梁川に九千石を与えることにして、奉行所を箱館から松前へ移し、松前奉行と改め四人体制
五月二十九日ロシア艦は礼文島で松前藩船禎承丸を襲撃し、利尻島で幕府の万春丸を襲撃
六月六日幕府は若年寄堀田正敦に六百人で箱館入りを命
八月二日神谷勘右衛門を国後、近藤重蔵を利尻島へ派遣
同五年一日蝦夷の防備を南部藩と津軽藩に加え、仙台藩二千人(択捉・国後・箱館等)と会津藩千六百人(樺太・宗谷・利尻・松前等)を急派し、秋田藩と富山藩に非常時には出兵準備
八月十五日長崎でイギリス艦によるフェートン号事件が勃発
七月間宮林蔵は宗谷を経て樺太
●富山藩に出動準備の指令
同五年十二月二十五日将軍徳川家斉から富山藩主前田利幹宛の下命書
  箱館・亀田・久奈尻(国後) 加賀藩から八艘の借用船に五百四十八人を準備

2異国からの侵略に備えよ!
●越中沿岸に御台場を建設
嘉永元(1848)年四月二十日佐渡沖で泉州堺船が異国船と遭遇、大豆二俵を奪われた。この報が藩内に与えた衝撃は大きく、新川郡では人夫動員を計画する。同二年二月十八日能登国鳳至郡海上を異国船が通行するや、藩は御台場の建設を急ぎ、翌年には銃砲調練を盛んに行った。
同三年八月全沿岸に十三箇所、優先着工が六ヶ所(本吉、大野、黒崎、輪島、宇出津及び伏木)能登国では計面を拡大し、安政元年(1854)までに二十七ヶ所設置
越中国では伏木に放生津を加え直ちに着工
同四年三月の藩主視察で生地と氷見にも築造命令
※臼砲弾丸の飛行距離 m
 照準角度
発射薬量------30度--------45度--------60度
157.5g--------383m--------463m-------431m
468.8g-------1,214m-------1,364m------1,086m
(金子功『ものと人間の文化史 反射炉T〜大砲をめぐる社会史』)
富山藩 文久元年(1861)七月に四方で測量を開始し、同三年四方・西岩瀬間に設置
付随設備として海防御役所と見張所を設営し、桜台の高台で常時海上監視にあたりつつ、川原での鉄砲稽古を幾度も重ね、防衛力の強化に努めた。
●伏木の御台場と大筒
生地 嘉永四年九月に築造決定 総工費銀一貫五百四十九匁一分 十月に着工 翌月完成
万延元(1860)年六月 大筒到着 幅六間から七間・長さ八十間程で、五ヶ所の台座(臼砲を使用)
六寸六分臼砲(約20p) 空丸三十ヶ 四寸(約12p)臼砲 空丸三十ヶ 四寸臼砲 実丸三十ヶ この三門のみ確認 空丸は「うつろだま」と読み中空の弾殻に火薬を充填できるもの、実弾は「すだま」と読み火薬を内蔵しないもの
伏木 嘉永三(1850)年十月着工、翌年四月完成 台座五ヶ所を有し、正面二十五間二分五厘・内面十九間六分・幅三間・前高六尺四寸・後高八尺の規模
 串岡に火矢蔵を同時に建設し、七月十七日金沢からここへ大筒を搬入(慶応三年八月の幕府外国奉行菊池伊予守一行巡察時には既に撤去)
慶応四年(明治元年)に改めて伏木と吉久に御台場建設を計画するが、未着工のまま廃藩
六貫目筒四挺(目方百六十貫目)------六貫目の砲弾を打つ約600kg の大砲(和筒か)
一貫目筒一挺(目方三十貫目)----約112.5kg
火薬入長持三棹(目方七十五貫目)----約281.3kg
 金沢から今石動まで出して船積みし、高岡の木町で積み替え、伏木へ運んだ。
・人夫 嘉永七(1854)年二月 総御手当人夫五万六千二十六人
内 越中国は砺波郡一万三百九十七人・射水郡六千九百七十人・新川郡一万三千四百四十九人
 人夫の召集は三段階に分け、即日召集の一番手から三日後召集の三番手まで九千人を確保し、その内越中国砺波郡で千六百三十四人・射水郡千百八人・新川郡千七百九十七人を予定
安政三(1856)年一月に村人たちへ郷土防衛への協力を要請
二月射水郡で人夫集結の細目 集合場所十一箇所を指定 小杉御郡奉行所附百五十人、同備荒倉詰三十人、放生津御蔵詰・吉久御蔵詰各百人、伏木御蔵詰五十人、同御台場詰五十人、村々の肝煎や組合頭が諸役に就き、十村は別に人夫二十から三十人程を率いて全体を統括 二上・米島・能町・六渡寺・湊口の五ヶ所の渡場に、各二艘の渡船を増置
「村役人心得方」を布達し、注進飛脚のこと、村役人や人夫の服装のこと、目印紋のこと、異国船狼籍の時に早太鼓・早鐘を打つこと、人夫は鍬・鎌を持参すること、などを確認

3いよいよ黒船が出現
 ペリー来航の報が伝わった後の同六年六月十八日藩主は武具の準備点検を命じ、十一月江戸で老中阿部正弘より書付けでもって激励
海防熱は民衆へも伝播し、献金や助力の申し出など 金属供出、寺院の鐘(実効は疑問)
同七年正月高岡町医者十三名は藩へ変事にはお役に立ちたい旨を願い出
同七年二月から三月にかけて異国船が頻繁に近海を通行(河北郡白尾村沖に二月十九日と三月十日アメリカ船、別の異国船が河北郡大根布沖) 十二月「異国船渡来ノ節心得方」を布達
安政二年には国籍不明の船が加賀大聖寺沖を北上、幕府からイギリス船三隻とフランス船一隻が海路測量のため領海を通行するかもしれないと連絡があり、五月八日このことを領内に布告→伏木と放生津の十村三人が指揮し、打出本江の出張所へ近在の肝煎二人を詰めさせて海上を監視

4ロシアの軍艦が伏木湊に侵入した !
安政六(1859)年一月佐渡沖で煙を上げた大船が目撃 
放生津で二月九日と二十二日に発生した火事が異国船襲来と誤認
三月に一且異国船発見時の藩への報告を簡素化し、領内の緊張を緩和させるが、四月に入って数隻の異国船発見情報が相次ぎ、二十四日午後二時、伏木浦へ異国船が姿を現した。
これまで浦々に異国船が直接侵入したことはなく、人々も異国船のことは黒船の話を噂に聞いているだけで、実際に見たものはいない。そのため最初、漁民は黒煙を船火事と錯覚して騒ぎになったが、駆け付けた浜役人は、職責上黒船の知識をもっていたため、すぐにこれを異国船と認識した。地元民にとっては驚天動地の出来事である。その時の模様を、伏木村算用聞半平と同村肝煎彦五郎は郡奉行へ提出した報告書で再現している。

5情報は速やかに、しかし冷静に
・注進飛脚は高岡町奉行所に走って五時頃に到着、町奉行所は金沢に早飛脚を立てる一方で、木町横目俵屋を伏木に派遣し状況を調査させ、木町肝煎弥平次に船を手配させ、藩から番頭・物頭・目付役人・鉄砲組・長柄組など百数十人の急派に備えた。
・黒船襲来の報は、遠く離れた砺波郡へも届き、情報が錯綜していたことも手伝い役所を混乱に陥れた。伏木の現場ではかねて決めていた通り、村肝煎が注進飛脚を金沢へ発した。飛脚は夜通し駈けて、午前四時頃に到着している。
・飛脚の情報をもとに藩中央は徒に慌てることなく事態を分析し、軍勢の派遣は見送った。その後は役人を派遣し実情を調査するだけに止めている。この黒船の図は翌日付で御郡奉行に提出された。
・富山藩では、ロシア船が婦負郡四方沖を通過するのではないかと考え、翌日未明御馬廻組一組・御先筒足軽二組、医師を含め百九十九人と大筒四門を急派し、長福寺に本陣を構え、二十七日昼まで厳重な警備を行った(完全に退去したのは二十九日)。二十五日には西猪谷と切詰へも各々新番御歩行一人・御先手足軽十人ずつを派遣し、五月一日まで詰めさせている。

6イギリス船が伏木に来航か?
・ロシア船の来航事件は御台場の防備を無視された加賀藩と民衆に、異国の脅威を現実のものと認識 神奈川・長崎及び箱館開港の通知が六月に届く
・ロシア船が万延二(1861)年二月三日に対馬へ来航し居座ってしまう→七月二十三日イギリス船がロシア船へ退去を要求 幕府から加賀藩へ、領海内にイギリス船が測量のため立ち入る可能性がある、と通告があり藩主は参勤交代の出府延期 
 葱薪を伏木・放生津では五十棚宛、東岩瀬・生地では三十棚宛、卵を一ヶ所五百個宛準備
●沿岸防衛を強化
・在番 不意の異国船来襲に備えるため海辺駐屯兵力の増強を決定
嘉永六(1853)年九月設置の新浜在番と富来在番を文久二(1862)年十月に改組し、十二月までに任地へ部隊を率いて赴くよう命じた。
越中国新川郡に赴いた在番六隊(一隊につき武士三十人と馬一疋) 東岩瀬は御馬廻、滑川は銃卒屯所藩士、魚津は郡代、生地は在番(人持組千石以上藩士)、入膳は銃卒屯所藩士、泊は在番(人持組藩士)、境は奉行を地域責任者 
伏木や新湊の浦々へも進駐し、放生津打出本江村の西浜では浜稽古
文久三(1863)年 藩主前田斉泰も郷土防衛への領民の協力を訴えた異例の書簡

・銃卒 文久三(1863)年二月より領内各所で銃卒準備

十七から三十歳で身長が五尺以上の男子を対象に募集
五月「銃卒撰方規則」浜の有無にかかわらず人口五十人につき三人、全領内で千人を見込 
身分は一人半扶持の小者格で、一ヶ所に百人宛配置し、五十人ずつ二班に分けて一ヵ月交替で屯所に勤務させ、残リ五十人を予備とする、という計画
三月二十日海辺在住の未届けを含む医者全てに異変発生時の協力を依頼
伏木では稽古所を台地下砂利原の空地(現伏木神社)に設営し、高岡や大門から、遠くは信州からの参加者を交え、総数二百人規模で大隊調練を行っていた。
服装は陣羽織にたっつき袴、漆塗の三角形の扁平笠を被り、短刀を帯びてエンフイールド銃(イギリス制式銃・前装・剣付)を所持
稽古鉄砲は調練用の修羅筒を各稽古所に八十挺ずつ当面渡し、文久三年十二月に持直しの銃一挺を見本として下付、やがて各八十挺を分配する。砺波・射水両郡ではこれらを取り纏め砺波に保管、合同調練を実施しだときに用いることとした(「出町史資料」)。
高岡町銃卒 文久三年五月に高岡町奉行が銃卒奉行を兼務することになリ、旧御旅屋の林地内に稽古所を設置した。調練は足軽二名(加納建次郎、林久太郎)と町人一人 (鳥山敬二郎)
 八月二十六日の放生津浜での調練では、銃卒が木町浜を整然と行進して六隻の長舟に分乗し、他に町奉行・町年寄・兵糧道具の船とともに計九隻で六渡寺村まで乗下り、帰りは陸路を行軍
元治元(1864)年の甲子の変では京都警衛のため領内から四十七人の銃卒が選抜され出兵しているが、この内の五人が高岡銃卒
→献金・防衛・警察を人々が担うことで郷土や自治への意識が強化

7脅威が好機へと変化
慶応三(1867)年能登国所口に、イギリス船サーベント(五月二十六日湾内測量、七月八日再訪)、サラミス、バシリスク(七月八日)、アメリカ船シヤナドー(六月十二日)、フランス船ラプラース(七月十一日)が、イギリス公使パークス(バシリスク)と幕府役人三人(シャナドー)を伴って入港してきた。当時、新潟が開港場として不適当との話が出ていたこともあり、七尾を開港場にするつもりではないかと考えた藩は、幕府役人に接待攻勢をかけ、反対を陳情するが、その際にサーベントが測量のため伏木に赴く意向があることを知る。そこで、藩はこれを取り止めてくれるよう交渉しつつ、伏木入港に備え準備を指示し、富山藩へも急使を送った。
 この話を聞いた越中国各郡は、藩の情報ルートが〔所口→伏木→富山城下〕となっているため、富山藩と連携して対応していくことになる。そこで富山藩四方肝煎は加賀藩領新川郡東岩瀬の浦方に、イギリス船接近の場合はその動向を知らせることを約し、東岩瀬は伏木へ「聞合人」を派遣して情報の入手に努めるとともに、イギリス船の動きに応じて沖合で行う合図を確認した(測量しないときは自旗、するときは赤旗、上陸の時は青旗)。当事者の伏木では、異人上陸があった際の対応について協議を重ね、予定されていた勝興寺法会はそのまま執り行い中門を締め切って異人は入れない、と結論を出して寺社方に許可を願い出る。
 結局この時も来航は中止され、これまで湾内の侵入を受けたのはロシア船の時の一度にとどまった。しかも、藩の連絡網が機能していたため、徒に騒ぎを大きくすることはなかった。一方で人々の異国船に対する見方も、当初の「恐れ」と「警戒」から維新前夜には「好奇」へと変化していた。
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2011年02月20日

越中砺波郡高波地域の歴史

1 通史
●鎌倉時代
糸岡庄 八条院領御領 鳥羽天皇の皇女 後白河天皇皇子以仁王を猶子として庇護
鳥羽天皇の皇女昇子内親王(春華門院)を猶子
建暦元(1211)年 春華門院御領
11月 順徳天皇へ献上 後鳥羽上皇の管理下のため承久の乱後に幕府が没収
同3年7月 後堀川天皇御父君の後高倉院へ返進 妃の北白河院藤原陳子が管理
暦仁元(1238)年 式乾門院利子内親王へ譲渡
建長元(1249)年 後堀川天皇皇女暉子内親王(室町院)へ譲渡 
猶子の中書王(後の将軍宗尊親王)へ譲る予定
正安2(1300)年5月以降も室町院領の新御領として目録内 
同4年8月に幕府の仲介で大覚寺統と持明院統で折中
武家と親しい持明院統の所管 その後も交渉が継続
 弘安6(1283)年尼真性の使いとして東大寺の僧覚範が糸岡庄に入り狼藉を働いたため、 東大寺に覚範の身柄を差し出すよう宣旨が下っている(六月三十日「官宣旨」)。

●南北朝・室町時代
建武2(1335)年 後醍醐天皇から町経量(藤原氏・坊城家)に給される。
経量は勧修寺経顕の弟で治部卿・従三位、出家して忍乗と称した。
正平17(貞治元年・1362)年7月 北朝・持明院統の後光厳院の院宣で安堵
天授元年(永和元年・1375)年3月 孫の讃岐前司定宣に譲渡
同五(康暦元・1379)年に、北朝の下で荘園を安堵…本所
応永2(1395)年 定宣から子であろう栂尾の明深坊経増に譲与
※領家…村上源氏の土御門家
土御門親賢(ちかよし)(永仁5年〜正平5年・観応元年2月13日)(「師守記」正平二十一・貞治五年十一月七日条) 預所として若林卿覚増に半済(年貢の半分)が渡されている。
●戦国・安土桃山時代
一向一揆勢の支配 荘園の支配は名目
糸岡惣中は石山本願寺の顕如へ「黄金五文目」を贈っている。小矢部七社境に住んでいた白江氏(備後守とも)は、織田信長との石山合戦に出陣し、その褒美として阿弥陀如来像を賜ったので、東宮森に圓長寺(この時は道場か)を建立したという。
江波村付近は倶利伽羅峠や埴生からの旧北陸道に近く、洪水の発生源であった庄川からも影響を受けにくい地帯であったため発展し、五輪塔が建っていたと思われ、砂岩からなる宝篋印塔の笠部分(高さ三十p・縦横各四十三p)二個や火輪数個が出土している。
※木舟城に石黒氏 天文10(1541)年2月本願寺と提携
 元亀〜天正初年には越後の上杉氏配下で一揆勢と結び織田勢と対峙
 天正6(1578)年3月 石黒左近蔵人成綱は上杉謙信の没後に景勝から離反 
織田方の神保長住に従うため一族内で争い 白江は西宮森へ移る。
同8年・9年に安養寺(勝興寺)を焼き打ち
 同9(1581)年 上杉勢の吉江宗信により占拠
成綱は織田信長から佐和山へ呼び出され長浜で討たれる。
7月 織田勢により奪回 佐々成政の支配 佐々平左衛門が入城
出城として東宮森・西宮森・東中の各村を含む地域にあった御館が焼失
北高木は宿場町として発展 
勝興寺が古国府へ移転することで打撃 
洪水が発生して道が寸断 →宿場としての機能は失われる。
佐々成政と前田利家の争い 木舟城の近辺や高波にも類
圓長寺も炎上 天和3(1683)年2月 祐慶が東宮森村で借地し移転 東派として再興(慶長元(1596)年とも) 東本願寺一如(16世)より木仏尊像、聖徳太子御影、七高僧御影等
江波村は上杉景勝が支配 本能寺の変翌年の天正11(1583)年3月に水越左馬助に宛行
天正13(1585)年5月 佐々勢による今石動城攻めが失敗
8月 佐々成政は羽柴秀吉に降伏
木舟城には前田秀次(秀継、利家の弟)が今石動城から入城
11月29日大地震 城下が壊滅 庄川の決壊で砺波平野の扇状地に大被害
金屋対岸で山崩れ 庄川水流を堰止め満水し流失 弁才天社の所で二分
 →千保川と中田川(今の庄川、下流は大門川)へ流入し新しい川筋 
…庄川の河道の一部を東に移し砺波平野が安定
 同14年5月 前田利次(利秀)が上杉景勝を歓迎
 同15年 今石動に拠点を移し廃城 水田化  

●幕藩制下の高波

    高  田方 畑方    新田高
正保郷帳
東宮森村 454石 29町3反 1町    40石
西宮森村 95石 6町1反 2反
北高木村 397石 26町2反 3反    94石
南高木村 329石 13町8反 8町1反
荒屋村     165石 9町5反 1町5反    48石
江波村     818石 53町5反 1町    313石

     草高 小物成             免
寛文10(1670)年村御印
東宮森村 545石 野役23匁、鱒役2匁     3.8
西宮森村 289石 野役11匁         3.1
北高木村 560石 野役34匁、鮎川役2匁、鱒役2匁 4.1
南高木村 271石 野役34匁、鱒役1匁     4.3
高儀出      46石             3.8
荒屋村     292石 野役6匁、鱒役1匁     4.3
江波村   1182石 野役34匁 3.7

夫銀…労力の提供であったが銀納に置き換え 年貢米100石に付き140匁(5石)
口米…目減りや虫食いによる減量の補充分 1石について1斗1升2合
村高×免=定納
定納×0.112(1斗1升2合)=口米
定納×1.4(140匁)=夫銀
小物成 野役…未開墾地
 その他、山・川原・鮎・鱒・油等40種類ほどに賦課

慶安4(1651)年 改作法を施行 砺波郡では慶安4年から明暦元(1655)年にかけ実施
領民と藩士とのつながりを断ち、土地所有を伴わない「高」の概念を導入 
農業振興のため高を持たない頭振を減らす
農地を私有化させずに高のみを保証し、各村の田の条件を均分化 
→耕作田を約二十年ごとに鬮で割替(田地割)
年貢未進を続ける農民の立て直しのため入用銀を貸与
→敷借米(未進米等藩への負債)を免除 町人への負債を解消
一村平均免と定免制を確立 手上高・手上免(申告納税)
農民の耕作期間中に食糧とする米は作食蔵を作って蓄え
生活できないという農民は町へ移住
※高波地域は承応2(1653)年に実施 御扶持人十村の戸出村川合又兵衛と宮丸村安藤二郎四郎が巡回(南高木村等に年不詳7月19日)
  
2 村について
●推移
鎌倉時代
 惣領制的農村  名主と下人・名子
    荘園領主や地頭による自然村を無視した土地支配 
  戦国時代 文明〜天文
   荘園の崩壊→地縁的な自然村 中小名主を中心に惣村の形成
   浄土真宗…中小名主を門徒、次第に農民全般に浸透
    道場は講の中心、惣村の寄合 本願寺と結合
    門徒農民が国人・地下人と一体となり抵抗
  藩政の開始 村を行政の末端単位
地域を同じくする家の群が氏神の祭・農作業・水利を共同
当初は範囲が不明確 離合集散
慶長10年(五箇山は天和5年)の総検地
明暦2(1656)年8月 領内(五箇山は寛文10年)に村御印を下付 
村の負担を石高により確定させて荘園制度や惣村・講の不可逆的解体を決定的にし、改作法を実行→村の範囲が確定 
 ・自然発生村落が村へ成長
 ・未成長の共同体が寄り集まり村
 ・範囲が大きいため分割して村
同3年 砺波・射水郡37か村に青葉の御印…南高木村や北高木村等
藩主印を押した農民への指導文書 
●惣村
共有財産、共同作業、自主規制、掟、年貢徴収
自主的な運営…宮座・寺座=宗教活動と結合
 寄合…年齢  乙名・年寄・中老  最高責任者=職事…鎮守祭礼主宰
 ・大寄合…早鐘をついて非常呼集
 ・野寄合…武装して夜間野原に結集一味神水 若衆が中心=神事祭礼の担い手
乙名が村主の小集落群(垣内)で構成
近隣の惣との対立を調停・和解
守護や国人との対立では近隣の惣と連合=組郷→拡大すると郡中惣、国一揆
 地域的な小都市=門前町、寺内町
●講
 農村 真宗が生活の中に深く浸透 道場に村を越えて集合
  寄合費用や道場坊主への喜捨、道場坊主を通じて本願寺へ志納金
  →講は本願寺にとって大切な経済的・行政的組織、信仰の基盤
  国人層(地下人)・開拓名主が真宗寺院を開基
   真宗の拡大=庄川扇状地の開拓
●近世の村
用水の取り入れなど農業を共同 
精神的結合の中心が氏神 祭と神社の維持管理
庄川からの引水…関係村落で口を定める 維持・補修・江浚い
 道路や橋の管理
 火の番 各戸交替で毎日拍子木 火事の後始末と仮小屋・炊き出し
 茅屋根の吹替え 村共有の茅場
 不時の見舞い
 村共同の経費=村万雑 毎年正月の初寄合で協議 前年分を徴収
 村内集団…年齢層−子供連中、若連中等 年中行事で村落活動
      信仰的−尼講    
●新田開発
庄川はいくつもの支流に分かれて扇状地を形成し海に注ぐが、本流は洪水を引き起こしながら絶えず流路を変えてきた。古くは谷口の青島から西に流れ川崎で小矢部川に注ぎ、応永頃の洪水で野尻川に移ったが、その後に中村川、新又川、千保川というように東遷し、天正頃になって庄川の流路が拡大する。藩は正保4(1647)年の柳ヶ瀬(柳瀬)普請、寛文10(1670)年には青島弁才天に桝形の大堤防を築造し、正徳4(1714)年に完成させた(松川除)。寛政頃までに堤防が各所で築かれ、川道が定まるにつれ川跡の開墾が進み、新村が形成されていく。
 砺波郡では藩政以前から耕作地の中心に家を建てて開拓していく方法が普及し、散居が形成されていった。慶安4(1651)年に改作法の開始と関連し、鷹栖村の散居内にある唐竹藪31ヶ所を矢竹用に指定し、保存している(『砺波散居村』)。本来、田地を20年程の目安で鬮により交換する田地割という制度は、耕地を分散・細分化し散居の形態に合わないが、藩は引地(苗代用等のため高百石に付き六反以内を控除)や屋敷割(家屋部分を控除)の他にも、屋敷林(垣根・カイニョとも)木陰の部分は年貢から控除する「陰引き」や、田地割した後に耕地を交換できる替地を認めることで散居を維持してきた。高を持たない頭振も宅地周りの田を請作している。扇状地の開拓に伴い洪水を避け家は微高地に建てられるが、それでも洪水になると被害が甚大であった。そこで水害多発地では屋敷を守る土手(堤)や石垣が築かれ、竹・杉・樫・ヒサカキ等の厚い屋敷林を配した三角屋敷も作られる(『砺波平野の屋敷林』)。一般的には南側から西側にかけて杉を厚く配し、西側から北側にかけ若干の竹を取り入れ、東側には鑑賞樹や果樹等の樹種を植栽し、周辺は雑木で占められていた(「富山平野の散居地域における屋敷林の現況と住民意識調査」)。庄川から城端にかけての山麓一帯では、南東の風に備えて屋敷林の南側を厚くし、医王山の山麓では西風に備えて西側を厚くしている。寛延3(1750)年正月に山廻役に宛てた触れで、垣根の木は火除けや風除けになるので、なるべく伐採しない事を達している。宮永正運も『私家農業談』(寛政元年)に屋敷林の効用について、風寒を防ぐ・盗賊の用心・類焼を防ぐ・枝葉や落葉は薪となる・大きくなれば用材となる・落葉は田畑の肥やしとなる、と記している。
 肥料には土屎や草屎を使っていたが、貞享までには新開地に鰯屎を用いるようになり、元禄には古田でも使用している。
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2010年09月22日

魚津での城址散策

万灯台
万灯台1.JPG
魚津米騒動モニュメント
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魚津米騒動発祥の地
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魚津諏訪神社
魚津諏訪神社1.JPG
魚津諏訪神社2.JPG
魚津城石垣の石(写真下部)
魚津城石垣の石(写真下部).JPG
魚津城跡 ときわの松
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魚津城跡 ときわの松2.JPG
魚津城跡 上杉謙信歌碑
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魚津城跡
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展示
大町小学校の展示1.JPG
大町小学校の展示2.JPG
天神山 博物館付近
天神山 博物館付近.JPG
松倉山周辺
松倉山周辺1.JPG
松倉山周辺3.JPG
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2010年03月10日

富山藩の「大奥」創設者 勝野

 出雲国赤尾家の勝野は才女の誉れ高く、徳川秀忠の姫である珠姫(天徳院)が三歳で前田利常に輿入れした際に召しだされ、仕えた。
 やがて前田利次が生まれると傅役を任され、寛永十六年に富山藩が分藩されると富山城に移り、御広式を整備する。三十人扶持と金五十両が給された。
 父の赤尾三右衛門清正も寛永十七年に利次に仕え(五百俵・銀百枚)、長兄の弥三左衛門(後に三右衛門)清治(五百石)は寺社奉行や町奉行、次兄の覚太夫清長(二百石、後に五十石加増)も寛永十六年に利次の御馬廻として仕え、その子覚太夫清貞は前田正甫の小姓である。
 勝野は延宝八年に兄清治の孫の甚左衛門清房を養子に迎える(五人扶持・金十両)。清房は御手廻組・御広聞番を勤め、貞享二年に勝野の跡を継いだ。
 勝野は貞享二年に没したが、赤尾三家はそれからも富山藩主の側近くに仕えた。
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2010年02月12日

越中国の相撲人

 長和二(一〇一三)年七月二十六日、宮中での相撲に県高平という越中から参加するはずの相撲人の姿が無い。洪水のため到着が遅れたのであった。越中各地では地方相撲が行われ、藩政期に到る。津軽出身の鬼木崎(鬼頭崎)岩右衛門(大坂大関)は、宝暦頃に藩の許しを得て富山町で興行し、引退後に津軽屋岩右衛門の名で富山に住む。人々は五福(熊野神社)に碑を建立し、越中の相撲開祖として相撲勧進の際には詣でる事を作法としたと伝う。
 人数は少ないが、江戸で活躍した越中出身の関取がいる。浅香山吉五郎は明和六年に現在の高岡市横田町で生まれ、文化四年二月前頭(七枚目・二勝四敗)を一場所だけ経験する。剣山谷右衛門(文化二年〜嘉永七年八月二十六日)に現在の富山市掛尾町に生まれ、文政十三年二月に大関昇進、二十七連勝・最優秀六回の強豪である。弘化四年に横綱の声もかかったが、小さい体(百六十七p・百十五s)ではみっともないといって辞退したと言う。嘉永五年二月・四十八歳まで取り、幕内三十八場所通算百四十三勝三十一敗六預五無であった。階ヶ嶽龍右衛門(文化十四年〜明治元年十月二十三日に)現高岡市戸出町に生まれ、弘化五年正月に入幕、安政三年十一月大関に昇進したものの同四年十一月関脇に下がり二日目に負傷し、同六年正月に引退する。幕内二十二場通算六十九勝三十二敗七分四預一無、最優秀二回である。黒崎佐吉は文政八年に水橋肘崎に生まれ、元剣山の二十山を頼り入門、嘉永七年二月と十一月の二場所幕内を経験し、計九勝一敗四分の好成績であったが、安政二年九月大坂で病没する。武蔵川大治郎(文政十一年十二月〜明治十四年五月二十六日)に現高岡市中川上町に生まれ、安政七年二月に入幕するが、文久二年二月に引退し、帰郷後には羅卒(警官)になった。浦風林右衛門(天保十二年六月〜明治三十八年八月九日)は現射水市久々湊の生まれで、十二年・二十二場所かけ明治五年四月に入幕、関脇など三役を六場所勤めた。
 明治に入ると、砺波市出身の立田野竹松が明治十六年一月に入幕し、四場所幕内を勤める。同十九年五月を最後に廃業し、魚河岸で荷揚げの仕事をして資産を蓄え、甘味所の銀座立田野を創業した。水橋大町からは梅ヶ谷藤太郎(明治十一年三月十一年生〜昭和二年九月二日)を輩出している。同三十一年一月十九歳で入幕、大関まで順調に昇進して同三十六年五月に大関常陸山と全勝対決し、敗れたが共に場所後横綱へ昇進する。百六十八p・百五十八s、幕内三十六場所通算百六十八勝二十七敗四十七分二預、最優秀四回であった。売薬業押田喜平の四男であり、長兄の喜訓は保寿堂を創立し、町長や県議を務めた。緑島友之助(明治十一年一月十二日〜昭和二十七年十二月十六日)に滑川市横道の生まれ、同三十五年五月に入幕し、同四十一年に小結。常陸山を破ったこともある。引退して立浪を襲名し、双葉山や羽黒山等の横綱・大関を育成した。富山市吉作からは太刀山峰右衛門(明治十年八月十五日生〜昭和十六年四月三日)を出す。将来を早くから嘱望され同三十三年五月に幕下付出、同三十六年一月には入幕し、横綱まで駆け上がった。同四十二年六月八日目から四十五年一月八日目に負けるまで四十三連勝、翌日から大正五年五月八日目に負けるまで五十六連勝で、四十歳まで現役であった。百八十五p・百三十九sで、幕内三十一場所通算百九十五勝二十七敗十分五預、最優秀九回・優勝二回であった。玉椿憲太郎(明治十六年十一月十日〜昭和三年九月十九日)は水橋上砂子坂で生まれ、梅ヶ谷を頼り上京、同三十六年五月に入幕し、関脇四場所・小結七場所を勤め、常陸山とも三回引き分けている。引退後は東京の雑司ヶ谷に相撲道場を開いた。砺波市増山の小柳芦太郎(明治十一年七月一日〜昭和二十一年四月二十日)は同三十八年一月に入幕し、同四十年一月横綱大砲を破った。帰郷後に草相撲で活躍し、相撲指導に努める。
 大坂相撲では、現高岡市横田町の猫又三吉(嘉永七年十一月二十日〜明治四十二年十月九日)が、明治十二年九月に入幕し、同十九年十一月大関に昇進する。同二十六年十月を最終に帰郷し旅館を営む。
 京都相撲では華の峰善吉(文政十三年〜明治三十二年七月十七日)が越中出身である。維新に際し西郷吉之助の下働きとして活動し、会津へは西園寺公望に同道して錦の御旗を持つ。明治四年に大関に昇進し、引退後も疎水工事や日清戦争での力士奉仕を申し出たり、西郷隆盛の建碑を首唱した。    
『大相撲人物大事典』(ベースボールマガジン社、平成十三年) その他
富山県出身の力士については
 Wikipedia
 大相撲 記録の玉手箱
 富山市郷土博物館
 
 

posted by 越中郷土史家 at 17:05| Comment(0) | TrackBack(0) | 日記 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする