一、砺波郡に関係する飢饉や災害
文化元年(一八〇四)井口では旱魃、五箇山の南大豆谷村などで地震が記録されている。
文化二年(一八〇五)越中各地で不作が伝えられ、六月にうんか防除のため、魚油の必要量を書き上げるよう達し、十二月砺波・射水郡の川下米の欠米を九升まで認めた。
五月一日に福光村東町百姓善助宅から出火し、四一六軒中九六軒(百八軒の記録あり)を焼いた。
文化三年(一八〇六)前年十一月に勝興寺闡郁が宗論(三業惑乱)のため江戸築地門跡へお預けになったため、一月に門徒多数が金沢西末寺・照圓寺へ詰め掛ける騒ぎとなった。その数一万人ともいう。馬廻頭は藩へ幕府に掛け合うよう進言し、門徒をとりあえず静めた。
文化四年(一八〇七)不作が続き飢饉が起きつつあったため、加賀藩は冬に十万石を支給する。また御貸米を各郡で実施し、砺波郡一万五千八百石・射水郡九千石・新川郡一万三千石であった。富山藩では十一月末に難渋人の調査を行ない、対象者に生活資金を貸し出した。また金融緩和のため銭手形を通用させ、銀銭手形貸付を実施し、借家賃の一割引を命じた(六年四月まで継続)。
文化五年(一八〇八)五箇山では不作のため十一月に御救米がある。この地ではたびたびの不作のため、藩は十年まで困窮者に米・稗、極貧者に粉糠の支給を継続した。
文化六年(一八〇九)五月から七月旱魃、十二月大雪に見舞われた年であり、射水郡で六千八百石の貸米がある。六月には医王山黒池で雨乞いが行なわれた。
六月一日福光新町で油屋幸吉宅より出火し、七十五(六十五)軒が焼失して一人が焼死する。
文化七年(一八一〇)一月は厳寒で、井波町では燈油も凍るようであったという。四月十七日城端町今町で出火し、全町の八割近くを焼失する。
文化八年(一八一一)三月に庄川で洪水が起き用水に被害が出る。
文化九年(一八一二)射水郡小杉では豊作が伝えられたものの、全般的には旱魃・虫害がたたって不作であり、砺波郡では十に月時点で損耗が七万七百五十石にもなった。
年初の大雪で二月加賀藩は困窮している村を救済するため引免を発表するが、十村からは不徹底を指摘する声があがった。九月には年貢米皆済以前に売り出していた新米を厳しく取り締まる。作食米の制度が再興される。これは耕作を始める頃に食用として藩が農民へ貸与する米で、草高に応じ貸渡し、秋に返却する仕組みであった。天明五年には村を通じて貸与する夫食貸米に変更するが、この年に元へ戻した。割り付けは、砺波郡千八百十七石・射水郡千二百十五石・新川郡千四百七十八石であった。
文化十年(一八一三)五月が空梅雨、六月一転して長雨という妙な天候で、不作が決定的になる。加賀藩は八万石を支給することになり、作食蔵による救済方法が見直されることになった。砺波郡では九月十七日夜吉江中・高宮・土生・小坂、十八日夜坂本・法林寺の人々が大声をあげ、戸出の十村川合又八に窮状を訴えようとする。十一月九日才川七辺の人々六十人が古箱を背負って福光に現われ、二百人ほどに膨れ上がったところで、夕方石崎善右衛門宅に押し掛け粥を所望する。町方は粥二斗を振る舞い、夜四つ時に退散させた。十八日には藩から御貸米一万四千九百石があり、この内福光には百十九石九斗四升が回された。町方も産物銀十三貫目のうち二貫目余を支出し、家数三一〇軒に各二匁ずつを、計千四百人に渡した。救済は翌年にまたぎ、二月町内の分限者から寄付が相次ぎ、三月藩も貸付米を行なった。
砺波郡では四月十三日夕六つ時に暴風が発生、戸出では屋根や立木が損傷し、福光では家屋が倒壊する。城端では三十軒余が被害を受け、小矢部の金屋本江村で八十軒・四日町で二十軒が潰れる。
六月砺波で中町の四日市屋吉左衛門宅から出火し、十六軒が焼失・三軒が潰家になった。富山藩では消防の妨げになると、十月に火事場見物の厳禁を申し渡す。
文化十一年(一八一四)三月晦日戸出東町で仁太郎宅から出火、百十七件を焼いた。四月八日に伏木で大火があり、二百余軒を焼く。五月二十四日昼九ツ半福光の下幅町有田屋五兵衛宅から出火し、二十六軒と貸家三軒が類焼した。
文化十二年(一八一五)砺波郡では一部不作が伝えられる。
文化十三年(一八一六)砺波郡では夏以来風・水・虫の害が相次ぎ、藩は福光村へ百一石二斗八升の御貸米を行なう。一月福光新町祖谷屋良蔵宅から出火し十九軒を焼く。
文化十四年(一八一七)不作への備えも進める。加賀藩では四月農民に奢侈を戒め、八月には村々の請酒販売・空米相場を禁じた。また十月に御助小屋より村々へ返された者の内、砺波郡百九十一人に十三貫五百目を貸与する。
文化十五年・文政元年(一八一八)旱損が砺波郡であったようである。甘藷栽培を停止し、田が減少するのを防ごうとする。福光で三月十六日夜四ツ時祖谷屋の孫市宅で出火し、二十四軒が類焼した。
文政二年(一八一九)三月十七日五十嵐父子・川合等十村二十八人(別記三十一人)が一斉逮捕されたのである。これに先立つ六日に藩主前田斉広は窮民対策として隠田数十万石の摘発に乗り出していた。また十村の一部に奢侈があると感じていた。閏四月に郡奉行と改作奉行が連署で赦免を願い出るが、これを不可とし、六月に十八人(越中十四人内訳は砺波四人・射水四人・新川六人)を能登島に流した。その前に夏の暑さで五人が牢死している。家財は妻子に下し、持高は取り上げて村方に預けた。しかし彼等がいないと村の運営が停滞し、結局翌年六月二十八日に釈放することになる。四年三月に業務に復帰した。
加賀藩では不作でなかったものの、一日四食が習慣化していたことを懸念し、三月に米は常食にせず、団子・うち置・大とう・いり粉・めくず等を食べ、大根菜は心がけて屋腰に掛けて干し雑食とするように、また厚みの魚は筋が緩むので食べないように触れ、十月には十村に万雑が重ならないよう達する。幕府は値段の低い米価に酒・酢・醤油・味噌等を合わせて引き下げるよう発令し、七月に加賀・富山藩はこれを触れた。閏四月二十三日に砺波郡で田祭りが行われている。
砺波郡で六月十二日と八月二十二日に地震が感じられ、風水害もあった。また七月に花火禁止の確認が加賀藩からあった。
この年各地で疫病の流行が記録されている。
文政三年(一八二〇)井波では一月二十九日山ノ下町で出火し、類焼百七十軒・潰家四十軒に及んだ。五月二十六日小矢部川が出水した。
文政四年(一八二一)五月は旱魃であり、九月農民に心得方六十一ヶ条を申し渡す(一月にも種々暮し二十七ヶ条が出されている)。
文政五年(一八二二)十一月二日に砺波郡七口用水と射水郡六ヶ用水との分水争いが、郡奉行所の調停で和解する。
文政六年(一八二三)砺波郡や新川郡で夏に旱魃があったことが記録されている。新川郡では舟倉に御蔵が建てられた。一方で十月に五箇山下出村で地滑りがあり、仁兵衛など八戸が屋敷替を余儀なくされ、藩から米・銭が支給された。
文政七年(一八二四)十一月七日福光で夜七ツ時に新町下幅八十郎宅から出火し、十三軒を焼く。射水郡と砺波郡で麻疹が流行する。
文政八年(一八二四)新川郡で不作が記録されている。七月加賀藩は諸郡とも作人不足につき他国出取締りを厳重にするよう令した。これには北関東諸藩・代官所による真宗寺院を媒介にした入植奨励によるところも大きかった。
八月十四日砺波郡・射水郡で北西の大風があり、井波では立木根返りが起き洪水が発生し、福光では文政六年に架けた東町端土橋が流れ落ちた(文久三年板橋として再建)。五箇山で仙納原大橋が流失。大風による潰家には一年間救助米が支給され、例えば一日当たり金山本江村に四合・石名田村に五合・西中村に七合、といった分量であった。
文政九年(一八二六)三月九日夜四ツ半福光で落雷があり、西荒町岩木屋又市宅が出火し九軒を焼く。
砺波郡で疱瘡が流行する。
文政十年(一八二七)夏の天候が不順の上に病虫害があり、砺波郡では不作が記録される。
文政十一年(一八二八)砺波郡に旱魃の記録がある一方で、各地で洪水が発生する。八月九日から十日、二十四日には砺波郡でも暴風のため洪水が発生した。
文政十二年(一八二九)米価が高騰し、四月に貯蔵・買い占めを禁じ、翌月には当年に限り他国産米の津入りを許可した。一月が大雪で、七月には風損がある。
文政十三年・天保元年(一八三〇)戸出では一月三日東横町で火事が発生し、百八軒を焼き半焼は九軒であった。この時高岡町奉行(半田次右衛門・大橋作之進)が指揮して消火にあたっている。直ちに郡奉行所から米三十石、五ヶ村より銭五十貫文、被害者各家へ川合家や菊池家より一貫文ずつ渡される。四月二十三日夜九ツ時にも東横町甚左衛門宅より出火し、三十五軒を焼く。この時も二十五貫八千文を五十一人に支給し、御貸米三十石四斗五升が渡される。有力者からは銭・筵・味噌等が配られた。
七月各地で地震が感じられた。
天保二年(一八三一)夏に雨が続き、気温も低く、九月二十八日庄川が氾濫し、松川除が大破する。被害は砺波郡でもあった。
天保三年(一八三二)一月二十六日に戸出東町で高島屋吉四郎納屋から出火し三十六軒を焼く。御貸米二十二石四斗が支給された。
九月十日〜十四日暴風雨があり、秋に砺波郡で窮民が出て救済が必要になる。
天保四年(一八三三)六月からの雨が秋に凶作を招いた。特に六月二十一日は大雨であった。米価は一升が八十四文であったのが七月から八月にかけ百三文に昂騰する。加賀藩は租税を免除し、貸米十六万二百九十四石を給す。内訳は砺波郡では三万千五百十二石六斗・射水郡では二万五百石・新川郡では二万八千八十三石八斗である。また貯穀を命じ(実施されず)、十月酒造を三分の二にせよとの幕令を半高から三分の一にするよう改めて公布した。
天保五年(一八三四)各地で疫病が流行する。砺波郡杉木では九月二十日までに二十余人が病没し、射水郡氷見の柿谷光誓寺過去帳によれば、例年一年間に五人程度の掲載であるところ、三年から五年には計六十九人も掲載されている。そこで加賀藩は五月に藩医を各地に派遣する。砺波郡には不破文中と黒川元良、射水郡には藤田道仙と河合善庵(病気のため小瀬貞安に交替)、新川郡には中村文安と今井昌軒が、例えば福野には不破文中・埴生には黒川元良というように分担して廻り、基本的には謝儀を受けたが困窮者には無料診療をした。病気はコレラ・麻疹・疱瘡のいずれか諸説ある。この当時の処方は麻疹・疱瘡には白牛・黒き牛・あめ牛の糞を黒焼きにして服する、「時疫」には大粒の黒豆を煎じて飲む、というものであった。
戸出で三月二十二日馬場の武右衛門宅より出火し、七軒を全焼・類焼四件を出した。御貸米四石二斗を支給された。
天保六年(一八三五)前年同様各地で疫病が流行し、八月砺波郡でコレラが流行ったというような史料もある。
備荒倉の設置が各地で見られる。砺波郡では六家と池尻に建て、同八年の時点で二百三十俵三斗(五百七十五石四斗)が保存されていた。この内池尻村では七月に普請が始まり、四十八石を入れた。十二月の記録では米二百四十七石余となっている。
天保七年(一八三六)未曾有の凶作であった。夏に雨がちで、八月十三日昼には大暴風雨で諸川が氾濫し、二十日に山寄で丸雪が降った。
郡部では早速備荒倉が機能した。砺波郡ではここから福光へ米八百十二石が御貸米となる。五箇山田向村では抵抗力が衰え風邪が流行している。ここでも米の支給に努めた。十月九里ヶ当村役人が洩米を差し押えた。これは下百瀬川村善九郎が井波町で買い入れ、炭焼き仲間の西ケ原村長蔵に頼んで、婦負郡の八人が背負いの米五俵と三袋を運んだのであるが、許可書がなかった。半分は役人に報奨として渡し、半分は入札して代銀を藩へ入れた。福町村辺り小矢部川原で五百から六百人程が夜大声を出し竹貝を吹く。町端御郡地には極貧者八百人がいた。さらに藩は御算用場より郡方へ救助法を渡した。粉糠は毒なので素焼きを砕いて一緒に鍋で煮れば毒気がなくなる等が示されている。
天保八年(一八三七)この年も前年から引き続き、両藩とも領内の救済に全力を挙げた。人々は春に山野へ出て摘み草をして食料の補給をしていた。加賀藩では幕府が通知してきた薬法(享保十八年に使用した「本草綱目」「農政全書」)を回覧する。また非常食の製法を廻状した。とらせ団子はとらせ(トリアシショウマ)の根を堀って毛を削り落とし、藁灰の灰汁でよく茹であげる。これをから臼で砕いて布袋に入れ、川水で一夜さらしてから干して、挽臼で挽いて団子にして少し焼く。とらせの類一升に籾の粉・穀類の粉を三合混ぜ、餅草など少し混ぜると食べやすい。糠はそのまま食べると毒があり、胃腸を痛め皮膚が青く腫れて死に至るため、瓦等の素焼物を砕いて粉糠とともに鍋で煎ると毒気が抜ける。それを篩にかけて、そこへ穀類を少し加えて団子か煎粉にして雑炊にして混ぜる。
一月五十嵐篤好が諸郡惣年寄・年寄並へ、木葉を食用にする方法を困窮者に伝えるよう達する。二月には武田九郎兵衛・渡瀬七郎太夫より非常食の作り方が達せられた。その大略は、三・四月新樹の頃の楢・櫧・槲・椋・柿・栗・榎等の若葉を酒で茹で、茶を干すように日に干して、楠天笠(ヤブニッケイ)の香気あるものを除き蓄え、鰹節・魚肉を加えて味噌汁に焚き、米穀を加えればなお良い(伊勢足代権太夫弘訓「おろかおひ」の内救荒之方からの抜粋)、青松葉を釜に入れてよく茹で、匂いをとって細かく刻み、ほうろくで煎り、臼で挽粉・蕎麦粉六分に松葉粉四分で合わせて団子にする、というものであった。
砺波郡では御貸米五千八百五十石と粥を支給するが、半分が玄米と籾・半分は粉糠を混ぜて、一日一合五勺ずつであった。のちに粉糠は腹具合に良くないと、蕗・さいかち・ぎびき等の葉と槻の若葉を混ぜて、玄米七勺五才・麦籾七勺五才・大豆・小豆の葉を入れたものに替えた。年初には一日一回であったが、夏近くになると朝二杓と午後一杓の二回に分けた。五箇山では四月二十九日に米が支給される。
藩は二月に改作奉行と郡奉行に大きな権限を与えて派遣した。砺波郡杉木新へ山口常三郎・永原虎一郎、射水郡小杉新へ崎田達之助・萩原勘太夫、新川郡東岩瀬へ山口新左衛門・広瀬順九郎がその任にあたる。その際「人民の死生に任じ心力を尽し、飢餓せしむる勿れ、凡そ事の大小となく便宜に随ひ裁決し淹滞ある勿れ、救荒の政遅延して事に及ばざらしむ勿れ…」との根本方針を与えた。まず貧困者へは無利息年賦返済で貸銀する(前に借りていた場合はその利息分を元銀に繰り入れ)。この月諸郡に御貸米をして、他国へ米などを密売しようとしたことが分かれば訴人が半分・所方に半分渡すことにしていた。八月酒造高を三分の一にし、九月新穀を残し食用植物の栽培を奨励する。また年貢皆済のため蔵宿から借財することを禁じた。十月になると作柄も回復して米の流通も円滑になり、米価は一石八十九文にまで下落する。十一月従来の製法以外新奇菓子類の販売を禁止した。備荒倉の貯蔵米を取り崩したため、六月に米に替えて新麦を一万石納入するよう命じた。五箇山下出村で七月に火事があり、十四軒が類焼する。
天保九年(一八三八)九月福光で浮塵子の害があり、一段の収穫が二斗〜三斗程になる。十月五箇山で困窮者三千人に米を支給する。
天保十年(一八三九)一月御貸米があり、砺波郡に六千百十九石・射水郡に三千七百三十一石・上新川郡に三千七百二十七石・下新川郡で千八百三十八石配分された。七月砺波郡では蝗の発生があり不作の傾向がある。砺波郡で体力が落ちた人々が風邪にかかったため、十一月末に矢木村館柏庵の進言で薬を供与し、村役人が責任をもって保護することにする。
十村等が申し合わせ、各組町方・郡方の消防設備と運営について取り決める。そこで設備は住民が負担し、奉行が指揮を執り、かつ藩倉の火防に努めることが明文化された。三月には郡方火事の際の水旗を定めた。四月一日福光新町で五十一軒を焼き、六月十四日下幅古館屋小兵衛宅から出火し、五十四軒を焼く。
天保十一年(一八四〇)十一月には大雪が降る。改作所は一月「能登の神棚」という多収種籾を配布し、五月「稲虫をさる法」を伝達して油を用いたウンカの退治法を周知させた。砺波郡大辻で三軒・三人、太郎丸で四軒・十一人、深江で三軒・八人、神島で七軒・二十人、中神で二軒・七人を対象に米が支給される。二月に池尻備荒倉で天保八年分の蓄籾六百五十九俵が種籾として払い下げられる。七月村方の万雑を高懸り・家懸り・面懸り等歩合をもって行なうことを達する。同月砺波郡で虫退治のため二百十日を過ぎても用水を取り払わないよう申し渡しがあった。
砺波郡の池尻村で大風のため備荒倉の屋根が吹き飛んだ。九月十一日に庄川で出水し、野尻岩屋口等の諸用水、弁才天前松川除が決壊し、太田・権正寺・頼成・上麻生・西部金屋・大清水に被害が出た。
天保十二年(一八四一)八月末に砺波郡津沢と新川郡水橋に米蔵の新設を申し渡している。一月大雪になり、福野で一丈積もる。
天保十三年(一八四二)砺波郡で松川除(寛文十年着工・正徳四年完成、砺波平野を守るため藩と十村が協力し、難工事の末全長八五〇間)の盛り足し工事が行なわれた。五箇山で四月畑作に障害が出るため、田地割特例が施行される。風水害が二月と八月に発生する。二月二十二日五箇山の下出村地内三ヶ所が崩壊した。
天保十四年(一八四三)加賀藩は農業生産の拡大のため、二月末(別説弘化元年)に郡方の町奉公を禁止し、三月末農家の娘が農業を嫌って尼僧になることを禁じている。
天保十五年・弘化元年(一八四四)一月十二日井波町で夜に神明屋仙助宅より出火し三百軒が焼失した。翌日には三日町でも出火し、八日町・六日町・北川・北新町で二百五十軒が類焼し、常永寺も被災した。
弘化二年(一八四五)十一月十九日昼八ツ時に福光の西町八幡屋与三兵衛宅から出火し、十四軒を焼いた。放生津で二月十四日に法土寺町三ヶ屋次助宅で朝四ツ時出火し、北風が激しく川に繋留してあった小廻船に燃え移り、留綱を焼断して荒屋町の川岸に流れ着いた。そこから人家へ延焼し、東町で五百軒が焼失した。勝光寺・光明寺・本誓寺・七面堂・八幡宮・神明社・藩御給人蔵一棟と正米一万石入五棟も被災した。
弘化三年(一八四六)六月に井波で火消の制度が整備された。火消方組合は水車組(新町山下町)十二人・掛矢組(畠方町山見松島)十二人・碇組(北新町北川)十二人・井筒組(御坊所御手人)十三人の計四十九人で構成し、火事の時は各々水旗一本、夜は高提灯一張・懸(掛)矢二挺・梯子一挺・鳶口五挺を持参することとし、杉木・福野・城端・福光が火事の時には、混雑しないよう一組ずつ月当番を決めて、まず五人を急ぎ出動させた後、鎮火しないようなら他の各組より五人ずつ出動させ、法被を着て頭取の指図を受けることが定められた。手当てについても明確化され、出動先が杉木ならば二百五十文・福野ならば二百文・福光ならば三百文・城端ならば二百五十文であり、大火の際はこれに増して支給され、さらに握飯も提供されるものとした。道程一里半までの近村が火事の時には、月当番の組から二・三人が出動し、非番組は火事を見付けたら町御用所や月当番の頭取へ知らせ、人足を出さなくても水旗と高提灯は準備していることが定められる。さらには火消人足には酔酒不作法を厳禁し、火事場で他の火消衆と出会っても争わず消火を第一とすること、遠所へ出張して消火のため潰家をする時には、その箇所を役人に知らせ、指図を受けること、火消道具の破損は直ちに頭取に届け出ること、等も決められた。火消達は風吹の時には町内を見回るものとし、一組三人ずつ頭取の指図を受けて、三組九人が代わる代わる二組で見回りを分担した。火消道具には水鉄砲・大鍵縄・指股・水溜桶・縄刷牙が準備され、組頭には手桶三ヶを渡した。消火のため用水から水を廻すので、用水管理は日頃から心がけておくことが達せられた。氷見町でも十二月に火消才許人の任命があった。
弘化四年(一八四七)四月八日から大雨で九日庄川が出水し野尻岩屋口が破損する。弁才天前では二十七尺にまで達した。小矢部川でも出水し、殿村橋・高宮橋・糸川橋・東町橋が流失した。三月二十四日夜四ツ時に砺波郡や高岡町で地震が感じられ、これ以後二十日間小震が続いた。これは善光寺地震の余波であった。
弘化五年・嘉永元年(一八四八)四月十七日庄川が出水し、被害があった。またこの年は十一月より大雪になる。
嘉永二年(一八四九)砺波郡で荏胡麻の種子が無料配布され、染料である紫根の植え付けが奨励される。
五箇山一帯は不作であった。
嘉永三年(一八五〇)五箇山で二月前年の不作で困窮している人々七千二百九人に御貸米が支給された。
六月九日に五箇山の下原から長崎・北原村間で渡船が転覆し、三人が水死する事故が起きた。両岸に張った操り綱から小綱に船をつないで流されないようにしていたが、渡っている途中に小綱が切れたようである。
嘉永四年(一八五一)加賀藩では七月に郡方の困窮を救うため、別除籾のうち二万俵を支給し、郡別に割り付けた。砺波郡で疱瘡が流行する。
庄川の洪水に備え、松川除補強工事を庄川筋各用水の江下銀(農民の出し合い)で施工する。七月に雨が続き、十三日砺波郡で出水がある。
嘉永五年(一八五二)福野で火消道具ならびに町中役付を決め、火事の時には火消し道具を持たなくてもよいからともかく火元へ駆け付けること、風下五・六軒は火消しに出なくてもいいが、風上の住人は協力すること等を明確にした。小矢部で鍛冶町と飯田町が火事になり五十軒を焼く。
飛騨から「米はや搗の法」なるものが伝わり、八月藩は厳重に取り締まった。これは杵臼がいらず、米がたちまち白米になる、五斗が五斗八升にも六升にもなる、というもので、高山でこの方法で製した米を食べた人が発病、糠を食べた犬は倒れ死んだ、等という噂も伝わる。また麦麺類になったものもあるので気をつけるよう伝達された。
五月二十日砺波郡で大雨が記録される。
嘉永六年(一八五三)今石動で三月一日に出火し、鍛冶町と飯田町で五十軒が焼失した。砺波郡では四月二十日に小矢部川と庄川等で洪水があったが、五月二十三・二十四日半夏至、七月十一日まで日照り続き、八月一日まで雨が全く降らず、水争いが多かった。十月四日には一転して大雪になり、潰家があった。一日で三尺以上の積雪があり、交通も途絶する。
嘉永七年・安政元年(一八五四)七月十六日庄川と小矢部川で出水する。十一月四日に地震があった。高岡町では以後二十日間小地震が記録される(震源地は東海道沖)。
安政二年(一八五五)砺波で四月十八日暁八ッ半頃に新町借家喜十郎宅から出火し、四十軒を焼いた。類焼人へは三十二石〜四石二斗の御貸米が十五年賦で戸出町蔵からなされている。八月二十日風雨が激しく、小矢部川で出水し、豆田川嶋除が切れ、土生村三百石が変地する。五箇山では同月仙納原大橋が山崩れで橋桁一本を流失した。
砺波で一月九日昼、二月一日八ッ時に地震が感じられた。さらにはコレラが流行する。
安政三年(一八五六)火事に備え福野では御蔵屋根を瓦で葺いた。除夜より元日にかけ二日町肝煎宗兵衛宅で出火。風呂に下女が入って筵をかぶり寝てしまい、釜口より筵の藁に引火したことが原因で、下女は裸で飛び出し無事であった。八日昼四ッ半には水嶋村又兵衛(茂兵衛とも)宅の芝屋から出火した。今石動で四月十五日川原町で火事があり、十九軒が焼けた。砺波郡や富山町で疱瘡が流行する。
安政四年(一八五七)砺波郡では福野の御蔵米を岩武用水で津沢に舟下しする。しかし米の搬出は米価昂騰を招き、その上不作であった。戸出村では新屋仁兵衛・米屋助五郎・米屋七兵衛の蔵米があり、前年暮には八十五匁であったのが、二月上旬百五匁、四月から六月上旬に八十五匁に下落したものの、下旬になると百七匁になった。そこで郡奉行所から救済がある。二月二十日極貧の者四十八軒六十五人に一人四斗一升の籾を支給し、七月には極困窮人二百二十九人に一人七匁五分九厘八毛ずつ計百七十四貫文・困窮人九十一人に五匁二分七厘五毛ずつ計四十八貫文・増山行願二十七人に七匁八分一厘五毛ずつ計二十一貫百文・非人二十二人に五匁三分六厘三毛ずつ計十一貫八百文・皮多五人に五匁八分ずつ計二貫九百文・藤内極困窮人二十三人に八匁一分七厘四毛ずつ計十八貫八百文・同困窮人四十四人に五匁七分七厘三毛ずつ計二十五貫四百文が支給され、暮れには極貧の者へ米価補助七百十六匁をとりあえず渡し、その後に七百五十匁を支給する。また村役人から寄付もあり、一月二十三日算用聞仁兵衛より一石五斗七升、二月二日算用聞次左衛門より一石一斗九升、十日組合頭助五郎より一石五斗七升、二十日算用聞七郎右衛門より一石二斗が極貧者に渡される。
安政五年(一八五八)二月十三日に地震があった後、二十五日に未曾有の大地震が発生した。震度は富山が六、マグネチュードは六・八というが、それ以上かもしれない。各地で記録されている地震の被害状況を記すと、砺波郡埴生村で潰家一軒があり、家の下敷きになった一人が足を負傷する。城端町では潰家・持蔵開きがあった。岩木村で五助宅が潰れ、母と六歳の弟が圧死した。掛所の石垣が崩れ、土蔵や戸前十軒余が潰れた。また川合田村等では温泉が沸き(弘化四年の説もある)、天神町南端の村方用水側田中にも沸いたが、用水を利用している江下農民の反対で実現せず、その後用水が流入して噴泉も止まった。砺波郡太美組田屋村領字西領の御田地と小院瀬見村領で山が崩落し、小矢部川が出水した。石動町で奉行所から潰家二十軒には一軒に銀十匁・半潰五軒に七匁・大破・中破四十一軒に五匁・小破五十一軒に三匁が支給された。
五月十六日から七月五日まで天候が不順で、六月二十一日に雹が降った。さらに地震のため米価が高騰し、加賀藩では酒造半減を命じたが、各地で暴動が発生する。今石動では七月十三日に竹貝を吹き、大声で叫ぶ人々がいて、奉行所から足軽が出動して鎮めるが、宮島で三百人が集合し、十六人を逮捕したら、十四人が郡方の者であった。十九日に福町の米商嶺屋に四十人が押し掛け戸を叩く。主人は背戸より逃れ、群衆が中に入り主人の所在を尋ねるが、家人から金沢に出張しているといわれたため、米を寄越すよう言うと、留守中なので何とも出来ないが、帰宅したら伝えると答えた。そのためこの群衆は次に米屋の島屋源兵衛宅に押し掛け、米を要求する。飯米が五斗あったので、これを渡そうとしたが承知せず、一人五斗ずつ貸せという。主人は今ここには無いので、店へ行くと一石程あるから、後程貸そうと言ったところ、納得して引きとる。次にこの群衆は水落屋善兵衛宅へ行くと、家人から主人は荒木家の吉事の手伝いでいないといわれ、仕方なく明日は東屋宇八郎のところから廻ることを申し合わせて帰った。その間に杉木から足軽小寺丈右衛門等が到着し、今石動奉行所も警戒を厳重にしたため、群衆は集団行動が出来ずに終息した。
福岡町では笠の価格が下落したため、笠縫人が仕入笠商人の買い取り価格が安すぎると、商人宅に強訴する。そこで郡奉行から縫子の生計が立つよう笠商人に命じ、翌年には十村もこの問題を検討し善処に努めた。
戸出では七月十七日に百余人が蔵宿新屋仁兵衛宅を襲い、板塀を壊した。責任を取ったのは十村の安藤次郎四郎で、二十九から九月二十二日まで謹慎する。
砺波では七月十日に困窮人へ籾三石五斗を支給し、難渋人に米価九十五文のところ七十九文で買えるように補助する。二十二日御印米を八十八匁で販売した。また小幡屋小左衛門・鷹栖屋甚兵衛・同源右衛門が寄付し、一人五匁を七十軒に配布した。七月に籾の給付と八月に御貸米があり、内訳は杉木新町が六俵一斗八升五合・八俵三斗七升二合、太郎丸村六俵四斗一升五合・十二俵三斗、深江村二俵一升二合・三俵一斗、神島村三俵七升六合・七俵二斗、大辻村四斗九升四合・一俵一斗であった。そのために他の地域のような騒動はなかったといわれるが、十一月四日芹谷村で大声をあげた集団がいたようである。
七月に福光で米商人達が雨乞いをするため、医王山の大池や蓑谷の縄が池に金気の物を投げ込んだという噂が流れる。十七日夜九ツ時に加賀から能美村与三郎と菱池谷の六兵衛に率いられた五百六十人が二俣往来筋で「ひもじいわあい」と声を合わせて休み茶屋を破壊した。西町の人々が役人へ届け出て、会所で見張っていたが、翌日夜に町中へ侵入する。天神町と西町の往来で梯子を横にしてくい止めようと試みたが、九ツ時に天神町へ数十人が大声を上げて押し寄せ、警固所を壊して裏町から本町に出て、この時謹慎中であった組合頭油屋善吉宅に石礫を投げる。暴徒は刺し子・綿絆・鉞で武装し、鉄砲まで持っていたという。首領は帯刀していた。いったん宇佐八幡宮境内で休憩し、再度三・四十人で油屋へ押し掛ける。今度は火消し達が防御したものの、武装をしている暴徒に排除され、家屋・家財が壊された。ただ隣家との塀や蔵には手を付けず、気が済んだのか、八幡宮へ戻って天神口から去り、天神村で鉄砲を放って山中に消えたと伝えられている。藩は検分をしたものの、なぜか処罰をしていない。
井波町では米屋が米不足に対処するため米を買い集めるが、調達が難しく、町蔵の藩詰米二百石の下付を申請したら、百石が許可された。七月に二百五十石の下付を願い出たら、金沢で百石を回さねばならないと返答されたため、改めて申し入れると、二十六日に許可された。しかし前日利賀谷の住民は、このような米屋の行為を買い占めと受け取り、長崎村茂右衛門を首領に筵旗を仕立て、竹槍を手に閑乗寺に集結し、夜竹螺を吹いて、松明を灯し絶叫した。明け方に大宝院町から北川村に出て、米屋三谷屋吉次郎宅を襲撃した後、井波町の六日町宮田屋与兵衛宅を破壊し、八日町塩屋小兵衛と蔵宿高瀬屋与右衛門宅を襲った(道順には別説あり)。高瀬屋では使用人が屋根から屋根石を投げて防戦し、手代惣二は内蔀から鑓を突き出して、九里ケ当村市右衛門の弟和助の胸を刺して殺害した。盗賊改方が捜査し、十二月に関係者を逮捕していく。惣二も入牢するが、翌年二月に出牢する。利賀谷村役人も責任を問われて翌年万延元年四月に入牢を命ぜられ、牢死者も出た。十月茂右衛門は井波町の観音寺(地名)で磔に処された。五箇山は不作であった。七月十二日に粉糠買入銀の貸与を受けている。このような騒動のため、砺波・射水郡奉行は七月に責任を問われ謹慎処分が課せられ、九月二十四日に解除されている。
五月十九・二十日に小矢部川・千保川・庄川で大洪水があり、浸水被害が出る。十月二十九日に大風が吹き、十一月十日の大吹雪では、砺波郡の松並木や民家が倒れ、小矢部では夜八ツ半に芹川村三軒・岡村一軒・五社村三軒・石名田村一軒が被害を受けた。疱瘡が五箇山で流行し、領内各地でコレラが翌年春まで流行し、砺波郡でも八月頃に蔓延している。加賀藩は九月に対処法を各奉行宛に送付する。そこには体を冷やさない、腹には木綿を巻き、大酒・大食を謹む、発病したら早く寝床に入り、飲食を謹み、体を温め、芳香散を薬に用いる、体が冷えてきたら焼酎一・二合の中に樟脳または龍脳を一・二匁入れて温め、木綿の布に浸して腹・手足にすり込む、芥子泥を心下腹・手足へ小半時くらいずつ度々貼る、といったことが記され、また芳香散上品は桂枝・益智を細かくし、等分の乾姜を細かくして調合し、一・二分ずつ用い、芥子泥(芥子と水を混ぜて練ったもの)・芥子粉と等分の饂飩粉を熱い酢で堅く練り、木綿切りに伸ばして張り、間に合わなければ、熱い湯で芥子粉だけ練ってもよい、とある。
安政六年(一八五九)戸出でも窮民救済措置が取られている。砺波の御貸籾が継続され、杉木新町七俵七斗八合、太郎丸村九俵四斗八合、深江村三俵一斗四升、神島村五俵一斗九升五合、大辻村一俵三斗三升三合であった。
砺波郡の野尻村で二月二十八日に万兵衛宅が焼失し類焼する。雨が多くて南風が強い年であり、五月に雹が降る。五月十九日から二十一日に小矢部川・千保川・庄川で出水し、砺波郡や高岡の木町・下川原町に被害が出る。八月十二・三日小矢部川が出水、砺波郡では浸水があり、そのうえ十九日には積雪の雪が溶けたことで、洪水が発生する。
砺波郡油田で四月十一日に竜巻が発生し、晒布や立木・花草等を巻き上げながら、放寺より新明の方向へ進んでいく。その道筋には雹が多く降ったという。
コレラが昨年来各地で流行する。砺波郡では九月二十四日から十月一日までの内、晴天両日に祭りをするよう指示があり、砺波で中止されていた歌舞伎山を四日間引き出した。郡内各地では獅子舞、五郎丸では丈四間余の鐘馗大臣の作り物も出た。
安政七年・万延元年(一八六〇)砺波郡では青田の稻の穂先が枯れて米価が高騰し、粥の炊き出しがある。戸出では難渋百十九軒に三十四日間、一人四合から二合、極難渋者にはさらに増量し、計一石一斗六升を炊き出す。水一石三升・上白米一斗五升・焚木柴十五把を要し、酒屋古武屋源七所有の大釜を用いた。また竹村屋七郎左衛門から寄付があり、西町六軒に九升・東町八軒に一斗九升・東横町十三軒に二斗・御蔵町三軒に六升・馬場町七軒に一斗一升・北町六軒に一斗一升を支給する。五箇山では四月極困窮者に御貸銀があった。新川郡の境では六月に小前者救済のため、奉行役用銀七貫匁の貸し渡しの願出があった。
庄川で十二月に出水し、被害が出る。砺波でまたコレラが流行し、太郎丸村では九人が罹患、その内七人が没する。
万延二年・文久元年(一八六一)砺波郡では三月十六日立野の西方で二十八軒焼失し、並松四・五本も焼けた。福野の下町新道で四月に火事があり、十五軒が類焼する。
加賀藩は八月に領民に宛て種痘を受けるよう布告する。
文久二年(一八六二)砺波郡では三月十日夜九ッ時に中神村宮が焼失する。六月二十五日蔵屋根を瓦葺に改めることにし、七月五日に成った。
三月十五日夜に大風が吹き、砺波郡で山田組で潰家二十軒があり、田中村や竹林村でも被害があった。
各郡で疱瘡と麻疹が流行し、砺波郡では野尻組で六千百二十三人(その内杉木五百二十七人)が羅患し、三百八十六人(内杉木二十九人)が没する。若林組では五千七百二十七人中三百八十一人が没する。井口組では五千二百余人が羅患し、三百九十九人が没する。五箇山で九月に七千四百四十五人中四百三十八人が没する。
福光で二月に狼の被害がある。
文久三年(一八六三)砺波郡では二月十三日夜より辰巳風が翌日朝五ッ半頃まで吹き、多くの家が潰れ、大木が根返りした。深江村伊兵衛の新居が住む前に潰れたという。九月三日には大つむじ風があり、昼四ッ時に鷹栖御坊島辺りより吹き出し、苗加鷹栖江辺りより東へ稲圦(水量調整のため地中に埋めた樋)等を巻き上げて通った。その跡は田の水が濁り、四〜五丈もの黒いものを虚空に引いて行き、その中が光を放っていた。稲圦の被害が多く、西町の豊蔵では五十宛固めてある二つが巻き上げられていた。又九郎の大根畑では五〜六歩の過半が引き抜かれ、大豆・小豆等にも被害がある。稲は籾がこぼれて藁のみになり、木の枝に稲束がかかっていたという。
文久四年・元治元年(一八六四)砺波郡で麻疹が蔓延したため、医者畠伯春が薬を各戸へ配布する。
元治二年・慶応元年(一八六五)霖雨が続き、不作であった。十月に米の移入を許可し、移入に係る税を免除した。杉木新町で種痘所を設置する申請が四月に出され、閏五月に頭川村の吉岡亮伯と嶋村の丘村隆介が種痘を学んでいるので、郡内の医者へ伝習して郡内六ヵ所で種痘をしたく、五箇山へは種痘医を派遣したい、と上申した。そこで藩は現時点では種痘医が少ないため、福光と福岡の二ヶ所で開くことにし、六月十日に福光・十三日に福岡・七月十日に杉木新町で開設した。五箇山で麻疹が流行し、塩硝生産に支障が出るほどであった。
慶応二年(一八六六)砺波郡では春に柳瀬村又九郎倅善太郎が居村の御普請所堰留で格別の働きがあり、しかも重傷を負いその後亡くなった。検地奉行は六月に父の又九郎へ三十貫文を渡している。五月十五日朝に砺波では北風が強く吹き所々で根返りがあった。八月七日夜に大風が吹き、福光では桐木七十本と家屋に被害が出た。
慶応三年(一八六七)七月十三日小矢部川の洪水で稲に被害が出た。特に医王山で大雨が降る。砺波の出町往来や福野の田で狼が出たため銃卒が狼退治に出動している。
二、生活水準の向上
水道の整備 この頃には生活環境の整備が進んでいる。水道も埋設地が増えてきた。砺波郡では用水をそのまま引いて飲料水にしていたため、伝染病の危険が絶えなかったが、五箇山等の山間部では谷間の水を竹樋で引いている。伏木でも台地の上から崖下泉を、木の継手で竹樋を継ぎ足して引いているが、分水池を用いていた。この方式は高岡町でも使われ、奉行所官舎や片原町等では湧水を用い、金屋町や横田町等では庄川の伏流水を引いて、井戸で取水している。瑞龍寺でも千保川または伏流水を引いている。坂下町では地下二・五bに直径六十六aと高さ一・五bの桶を分水槽に用い、これに竹筒をはめ、各家の井戸に水を導いた。
教育の普及 各地で寺子屋が創設され、男女とも教育を受けるようになった。有志の青年層は私塾へ進み、また和算を学んだ。僧侶達も学塾で研鑽を積んでいた。
福祉 これまで概観したように、藩は飢饉・災害の時には生活資金・宅地建設資金や食料を無償援助し、あるいは長期間・低利(無利子)で御貸米・銀をする。また日頃から質素倹約を奨励し、各地に備蓄米や籾を準備することにも力を入れた。疫病流行の節は藩医を派遣して巡回診療をし、薬を町医者に依頼し配布する。その際、事前に各戸へ配ってある札を持参することになっていた。老齢者には扶持が支給された。加賀藩では八十五歳・富山藩では八十八歳から名簿を作成し、九十歳になって渡される。高岡町では文政十二年正月に九人、伏木村では文化十年から同十二年まで奈良屋源右衛門の母よりが受給している。この記録から、年に二回三月と十一月(閏十一月)に支給したことがわかる。戸出では文化九年三月六日に狼の布晒屋彌兵衛、嘉永二年戸出村七三郎母みい、同三年同村太左衛門祖母きめが受給した。文化七年に砺波郡岡御所村で肝煎(まだ現職である)儀左衛門が受けている。天保十三年には百歳の人に下賜があったことがわかっている。また孝行者や婚家で尽くした嫁にも賞与があった。
幼児死亡率が高いため、藩政期の人口は横這いであり、一軒の平均二・三人程度である。藩は三児出産があると養育費を補助し、年一人扶持を支給する。たとえ養育数が減ったとしても、十五歳まで支給し続けた。また捨て子の養育者にも支給している。目の不自由な人々にも、男女を問わず資金を長期返済で融通した。
三、砺波郡出身の蘭方医
尾崎玄達(寛政八年〜安政六年) 石堤の人で、祖は能登の長氏という。号を栢山・国華といい、文化頃に長崎へ赴き、オランダ人から蘭方を学ぶ。また原蕉斉から漢方を学んだが、実父が亡くなり帰郷し家督を継ぐ。能書家としても知られ、寺子屋を開いた。
高畠次郎右エ門秋平 北般若の西部金屋高畠博道次郎右衛門の子として生まれる。祖は前田利家に仕え新川郡井見荘日谷村にいたが、致仕して現在地に移住し帰農した。秋平は医者を志し十九歳の時に上京して、内科を福井家、産科を賀川家に学び帰郷して開業、門弟も持ったが、改めて門弟数人と大坂へ赴き京で開業し、寛政二年十一月から橋(稿)本白敏に就いてオランダ語や蘭方医学を学んでいる。門弟の篠島貞輔を三年華岡青洲に学ばせ娘と見合わせ分家させた。自らも西村太冲に算学、泉伏翼に書を学び、江戸で宇田川榕シに化学を学ぶため旅立つ直前に急死する。弘化二年一月二日六十一歳。
長崎文景 福野の生まれで、長崎で蘭学を学んだ後に、文政五年から天保八年にかけて、石動の糸岡で開院したといわれる。著書には『医方秘々訣』『諸方抜萃』等があり、多くの奇行があった人。
松田東英(寛政元年〜弘化四年十月二十五日) 埴生村河内屋伊兵衛の次男で、京や長崎で蘭方医の修行をし、杉田立卿に入門、文化五年金沢町医者で眼科の松田東英の娘婿になり名を就、字を将卿、号を芹斎とする。養父は同十二年に藩士寺西蔵人の医者になり、自身は同十四年に二代目を名乗った。文政七年著名な蘭方医で藩医吉田長淑の門人になり、天保頃には反射レンズの原理で望遠鏡や顕微鏡を作って寺西秀周や前田斉泰へも献上する。同十二年五十石を得て、大野弁吉とも交流を持ち、次女は銭屋五兵衛の次男に嫁いだ。
洲崎勇造 天保十三年に井波町で生まれる。安政五年三月京で産科の松岡周輔に入門し、西洋医学各科を学んだ。文久元年十一月に帰郷し開業、その後、明治八年七月から十年十一月にかけ京の松岡周吉を招いて研究を深め、十三年十一月医会を組織し医事交聞会を創設、二十年十月には井波病院を開いた。子息の勇橘は慶応二年十一月に生まれ、富山で開院する。
舘柏庵 杉木新町で弘化頃より明治初期に開業する。実父は矢木村根尾宗四郎。嘉永四・五年に杉木新に移る。合薬商でもあった。
中西通玄 杉木新中町で文政・天保年間に開業する。江戸の中西家で外科を学び中西姓を称した。天保十四年に没。
斎藤宗玄 祖は小矢部の福住村から移住した。屋号は福泉屋。代々医者で、子息の宗庵は寺子屋も開いた。
高畠東済 杉木新中町で天保から安政頃に開業し、牢舎医師も務めた。西部屋又七とも称し、霊渕の号で和歌や俳諧にも名がある。弟畠伯春など一族には医者が多い。
賀(香)川玄龍 福光村農家川合田屋宗七三男に生まれ、初め勝蔵。医者を志し、金沢で中野随庵に学んだ後、華岡青洲の門下に入る。帰郷し嘉永四年三月表町に開業する。安政二年十二月七日四十三歳没。
入門先
●京【萩野元凱】
井波 尾崎英介
松井周平禎 字子興、文化二年三月二十二日 二十八歳
杉谷周介駿 字千里、文政九年三月十二日
福光 田辺玄泰信恒 姓藤、天明元年七月
今石動 遠藤礼三宗城 字芳壷、文化十一年十一月八日 三十七歳
杉木新 舘柏庵維嘉 字多山、文政三年七月二十八日 二十八歳
【済世館 賀川家】
明和七年 尾崎栄輔(萩野元凱に入門した井波の尾崎英介と同一か)
【素診館 小森桃塢】
文化十三年六月 川崎(小矢部の下川崎) 宮永豊吉正朝(農政で名高い宮永家の一門か)
同年十月 福光 石野賢良、砺波郡岩木(福光) 沼田勇蔵
同十四年十一月 桜井以文哲
文政三年五月 川崎 宮永東作寅(尊王志士宮永良三の父)
同七年二月 砺波郡答野嶋(高岡) 中嶌謙斎
同年三月 砺波郡福町(小矢部) 福島友順
同十二年五月 砺波郡 岩佐秀平
天保二年四月 桐木(福野) 丹羽三七
【時習堂 廣瀬元恭】
城端 嘉永七年四月没 桜井良助
【読書室 山本家】
嘉永二年 今石動 建部有方
●紀伊・大坂【春林軒と合水堂(大坂分教場) 華岡青洲】
文化十年二月三日 砺波郡杉木新町 中西通玄
天保二年八月二十九日 砺波郡七社村 大谷俊造改玄龍
天保六年十二月十五日 西部金屋村 高畠貞輔改修平
同七年五月十六日 砺波郡柳瀬村 斎藤宗玄 合水堂
同十五年四月二十六日 砺波郡杉木 高畠東済
弘化四年五月十六日 福光 賀川玄龍
嘉永二年二月二十八日 今石動 九鬼秀達(実父は高岡町医者佐渡養順)

